Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

注意欠陥症の子が見ている世界

見える世界が違う

 ADHDという言葉は、私が子どもの頃にはありませんでした。

 正式には、注意欠陥多動性障害という名称です。

 簡単に言うと、注意力が散漫で、じっとしていられないということです。

 特別支援法というのができてから、各小学校に特別支援学級が出き、子どもの困り感に対応するべく、少人数での対応を可能にしています。

 

 注意欠陥と多動性に分けて考えてみます。

 

 

 障害という言葉は嫌いです。

 仕事上、職場の意思疎通でこの言葉を使いますが、私個人としては、障害という言葉を使わないようにしています。注意欠陥だと、まるでその子に問題があるように感じられるからです。

 

 実際に子ども達と接し、そして深く追求した結果、私の至った結論を書きます。

 

 注意欠陥とは、単に「一度に認識できる情報が多い」ということです。

 普通の人は、たくさんのモノに囲まれていても、自分の見たい物だけに焦点を当てて、存在を確認することができます。例えば、家中にポスターだらけだとしても、時間を確認するときには、時計だけに注意を向けることができます。

 「できる」と書くと、それが良いことのようですが、そうではありません。

 逆の見方をすれば、「注意を向けたモノしか認識できない」ということです。

 必要ないと自分で決めたモノは「見ない」ということを自然と行っているのですが、それはまた「見ているはずなのに見えていない」ということも生み出しています。

 普通の人とは、人間の能力を限定してしか使えないということです。

 

 これに対して、注意欠陥というと言葉のイメージが悪いので、こう表現すると分かりやすいのではないかと思います。

「なんでも認識できちゃう人」

はどうですか? そこに存在するモノが次々と認識できてしまうのです。

「あれは何だろう?」「あれは不思議だ!」「面白そう!」と、普通の人は認識しないモノが次々と認識されていくのです。

 

 つまり、見えているモノは同じでも、認識できる世界観が全く違うということです。

 

 そうするとね、どっちがすごいかというと、たくさん認識できる方が人間の能力としては高いということになりませんか?

 

 ただ、幼い頃から始まるので、幼い子は溢れる情報を処理しきれない上に、身近にいる親や教師から注意されてしまいます。

 親や教師は、その子を社会人として適応させたいという善意から言うのですから、自然なことのようにも思えますが、そもそも見える世界が違うのですから、本当に相手のことを理解することはできません。想像するしかないのです。

 

 たとえば、こんなのはどうですか?

 

 ディズニーランドに行って、華やかな世界が広がっています。

 目移りしませんか?

「ほら、そんなところ見ていないで、急いで行くよ!」

 なんて言われたら、「ちょっとゆっくり見ながら行こうよ!」となりませんか?

 

 美味しいケーキ屋さんに行って、美味しそうなケーキがたくさんならんでいます。

「どれにしよっかなー」と目移りするはずです。

「もう、見とれていないで、さっさと選びなさい」と言われたらどんな気持ちになるでしょうか?

 

 そういうことを想像してみると、分かりやすくなるかもしれませんね。

 

 そして、楽しかったら動きたくなります。

 つまらなくても動きたくなります。

 

 ただじっとだまって座っているというのは、本来、子どもとしては自然ではないのです。だとすれば、注意力欠陥だなんて、それが悪いなんて言えないのではないでしょうか。むしろ、興味関心がたくさんあっていいし、そもそも見えている認識できるレベルが一般人よりも高いのですから、何が見えて、どう感じるのかを聞くくらいのゆとりがほしいものです。

 

 

 今回は、注意欠陥ということについて書いてみましたが、そのほかの「障害」と呼ばれている現象も、すべてきちんとした理由があるという結論に至っています。

「自閉症スペクトラム」も「学習障害」も「味覚障害」も、「障害ではない」という結論です。全部逆なんです。能力が高いという結論です。

 

 長くなりそうなので、またの機会に書くことにします。