Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

命の授業

命を教える

 3月9日の朝日新聞の13面(教育欄)に、元小学校教諭の金森俊朗さん死去(73歳)の記事が載っていました。

 

 今から15年も前の話になりますが、私が高学年の担任をしていた時、ある保護者の方から「先生、このDVD、とってもいいから観てみてください。」と渡されたのが、金森先生の学級経営も含めたドキュメント番組でした。

 ある学級の1年間に密着したその番組は、子ども達と先生と自然と友達同士の本音のぶつかり合いを描いた内容で、「命の大切さ」をうったえた本当に心に響く内容でした。

 私は、そのDVDを道徳の時間に子ども達に見せたり、金森先生の著書を買い求めて読んだりしたものです。

 

金森俊朗先生の実践 

 新聞記事によると、金森先生は38年間の小学校教諭のあと、北陸学院大学教授として学生を指導し、著書は『太陽の学校』『性の授業 死の授業』『いのちの教科書』など多数あるそうです(ちなみに、私が読んだのは『いのちの教科書』)。

 そして、2010年には、広島大のペスタロッチ教育賞を受賞し、医療、福祉、宗教界などからも講演依頼が寄せられ、12年にはオランダに招かれて講演したそうです。

 

 若い頃に影響を受けた大先生が最後の最後まで、教育界や後輩達にメッセージを出し続けてくれたことに感謝すると共に、先立たれたことを寂しく感じながらも、受け継いでいきたいと思いました。そこで、個人的な面識はないのに、私が一方的に影響を受けただけなのに、そして、新聞記事の協力を勝手に借りて、今回の記事にすることを、勝手に許して頂きたいのです。

 

金森俊朗先生のメッセージ(朝日新聞より抜粋 2020.3.9)

・子どもならではの感受性を信じ、「自然や仲間と全力で触れ合ってハッピーになろうぜ」と訴え続けた。

・学校に対しては「管理と競争を強めないで」と最後まで危機感を語っていた。

・「命は大切です、と伝えても意味はない」と強調した。

・「教師の役割は、きっかけを逃さずに「なぜかな?」「今言ったのはどういう意味?」と問うこと」。

・「ガキはガキらしくせい」と言い、子どもが本来もっている「原始性」を臆せず解き放てと挑発した。

・雨の中で水たまりに滑り込んで泥にまみれたり、といった自然の中での体験を大切にした。

・学力テストの点数競走や子どもへの管理的な対応、教科書をなぞるような画一的な授業は鋭く批判した。

・9年前の東日本大震災後、子どもの自主性や判断力を重くみる声が出たことを喜んだが、「結局は同調や適応ばかりを求める方向に戻った」となげいていた。

・教師に求めたのは、「子どもをよく見て、よく聴く」こと。「内面の声、生きる物語に耳を傾け、言葉を引き出して」と若い人たちに語りかけた。

 

子ども達に命を教えるということ

 私は、金森先生のメッセージに強く共感させられます。

 しかし今回の記事で、現実社会ではそのメッセージを受け取るのは難しいという事実も認めなくてならないとも痛感させられてしまいます。

 

 例えば「子どもは子どもらしく」で良いのです。

 良いどころか、最高レベルだと言っても過言ではありません。深い理由は省略しますが、簡単に言うならば「子どもだから子どもらしいのが自然である」ということです。そして「子どもらしさは自分らしさ」でもあるでしょう。

 

 命の授業とは、ありのままの姿を大切にするということ。大人が「早く大人になるように」とせかしている今の教育現場の動きとは逆行しています。

 

 子どもらしさを体験せずに大人になった人にとっては、子どもらしさがなぜ大切なのかは当然分からないでしょうから、仕方のないことなのですが…。

 

 例えば学力をどう捉えるのか。

 そもそも「学力」とは知識なのかという問いに、良識のある教師ならば、「知識だけではない」と答えるでしょう。保護者だって「知識の豊富な教師」よりも「知識が豊富で人間味溢れる教師」を担任に求めたいでしょう。

 つまり学力というのは、人間性を高めるために存在しているのであって、知っているだけでは使い物にはならないのです。学力が必要ないと言っているのではなく、それを扱える人間性が必要だと言いたいのです。

 

 では、その人間性はどのように育成されるのかというと、人間によって育成されるのです。逆に言うと、人は人によってでしか育成されないのです。そこには教師と児童、児童同士、親と児童などなど、さまざまな要因が絡み合っています。

 

 絡み合うだけでは不十分です。そこには、本気のぶつかり合いが必要なのです。本気と言ったって、真剣とは少し意味が違います。私がいう本気は「夢中になって」の方が近いかもしれません。

 例えば遊びに夢中になって何かに取り組んでいるとき、その面白さの中に「夢中になって考える」ということが発生しているのです。しかも自然にです。

 そして、自然や遊びに夢中になった子どもは、そこから得た発見を誰かに聴いてもらいたくなります。その時にも人が必要なのです。自分の言葉で誰かに話すときにたくさんの学びがあるからです。

 

 

命の授業は夢中になれる授業 

 テストの結果を出すために夢中になっている我が子を見ると嬉しくなりますか?

 自然の中で夢中になって遊んでいる我が子をみると嬉しくなりますか?

 

 分かりやすいように、上の2つで比べると、私は後者を選びますが、前者を選ぶ人もたくさんいるというのが現実なのです。もちろん、勉強すること自体に夢中になれるのなら、それでもかまいません。その人は勉強するために生まれてきたようなものなので、その子がそれを自分で選ぶのなら、それが自然です。

 問題は、外で遊ぶのが大好きだという子や自分で考えたいと言う子など、自然な姿を経験しようとしている子に対して、大人がしてしまっている画一的な手法です。「勉強することが大いなる善である」とし、それ以外を排除しようとする動きが問題なのです。

 それが金森先生の言う「管理と競争を強めないで」というメッセージに現れているのだと思います。

 

「命」というのは、自然と調和して生まれてくるので、本質的に「自然」です。

 自然なものがより自然な状態でいることで、命を感じられる。命を感じられると、命が大切だと本当に分かってくる。こういう理論と結論に私は至っています。

 

 ただ、なかなか見えにくいし(物質としては見えるけど)、心のふれ合いともなると、見えないもの同士がぶつかっているので、一見、何が起こっているのかなど、他の人には分からないのです。

 結果として、目に見える点数を出しておく方が安心で簡単だということになるのでしょう。

 

まとめ

 私が最近、本当に理解してきたことがあります。

 それは、本当に大切な事は、なかなか理解されないということです。

 そして、そのことが分かってきたとき、それでも発信し続けている人は、本当に強い人であるということが実感できるようになってきました。

 

 お会いしたことはありませんが、金森先生から受けた影響に感謝の気持ちを込めて、今回の記事を書いてみました。

 なんだか、少々寂しい内容になってしまいましたが、最後まで読んでくださった人にも感謝します。

[rakuten:dorama:12935260:detail]