Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

勉強は楽しいのに楽しくないと思ってしまう理由

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 子ども達に「勉強は好きかい?」と聞くと、九割以上の子が「好きじゃない」と答えます。好きじゃない理由は「楽しくないから」でしょうね。

 では、どうして楽しくないのでしょうか?

 そもそも勉強はもともと楽しいことではないのでしょうか?

 私の答えは「ノー」です。

 

勉強は楽しいのに楽しくないと思っているだけ 

 結論から先にいいますと、勉強は楽しいのです。

 自分の知らなかったことを知る、新しい世界を知ることは喜びですから、疑いの余地はありません。では、なぜ「勉強は楽しくない」と思っているのかということを考える必要があるでしょう。それは、教師なら知っておく必要があるのですが、現実社会ではほとんどの教師は知りません。知らない理由は経験がないからです。いえ、教師ですから、勉強をするという経験はしています。ただ、間違った経験をしていて、それが正しい唯一の方法だと信じているからです。

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 一般的に、学校では教科を教えます。

 算数では四則演算を教え、国語では漢字を教えたり物語り文の読み取りを教えます。

 そして、分かる授業は良質で、「分かった」=「楽しい」という理論が成り立ちます。

 つまり「分かったら楽しい」ということは、「分からなかったらつまらない」ということにつながります。

 それで、教師としては、「いかに分からせるか」「どう理解させるか」ということに意識が向き、教育技術に偏重していくことになります。

 さらにややこしいのは、それで平均点があがると、周りの教師からも一目置かれちゃったりします。「あの先生の授業はうまいなあ~、どうやればいいんだ?」という具合に、教師集団として感化されていきます。

 点数は見えやすいので反応しやすく、ほとんどの先生は「良い先生」を目指しているので仕方有りませんが、この成功体験が「勉強は楽しくない」を生み出すということなのです。

 

「おかしくないですか? 分かったら楽しいのなら、分かる授業という成功体験は、勉強は楽しいを生み出すで良いではありませんか?」

 という声が聞こえてきそうです。

 順番に説明します。

 

 

分かったから楽しいは危険 

 まず、教科は学ぶための道具にすぎないという事実を前提とします。

 必要最低限度の知識は「読み」「書き」「そろばん」だけです。

 その中で最重要は国語力です。日常生活では、コミュニケーションの大半を言葉を媒介とするからです。深く考えるというのも、言葉を使って思考するので、言葉を知らなければ考えようがないのです。

 でも、そもそも、学校教育で学んだこと全てが人生にとって必須だということはありません。

 大造じいさんの気持ちを理解した6年生が日常生活で活用するということはないし、鉄棒が出来なくたって人生で困ることはありません。

 では、各種教科は「読み」「書き」「そろばん」以外に何を学んでいるのでしょうか。

 それは、学び方を学んでいるのです。

 こういう風に学習をすると、分かるようになるんだなと、子ども達が経験するということ。

 練習をしていったら、できるようになっていくのだなと体験すること。

 だから、分からなかったり、できなかったら、なるほど、こうやったらうまくいかないんだな、という経験をすることになります。それだけなんです。

 でも、教師は分からせよう、できるようにさせようとしすぎるから、子ども達は「分からなかったら自分はダメな子なんだという痛烈なメッセージを受け取ってしまうのです。それは学校だけでなく、家からも社会からも送られてきて、子ども達は受け取り続けます。

 もう疲れちって、「自分は分からなくても良いという選択」をするしかなくても、執拗なまでに「分かることが絶対的に正義である」という顔をしてメッセージが送られ続けます。

 教科は学ぶための道具にすぎないということの説明は、以上の説明ではまだ不十分ですが、先に進めます。

 

 次に、教科は学ぶための道具に過ぎないのなら、学びは何を目指しているのかを知ること、学ぶとは何かということです。

 自分の経験を思い出すと、分かる人もいると思います。逆に分からない人もいます。分からない人は経験がないということなので仕方ありません。でも、分かるということを前提に話を進めます。

 

 例えば、クロールができるようになりたいと自分が願ったとします。

 願った理由は、クロールという泳ぎを見たからです。知ってしまったのです。

 すると、自分もああなりたいという憧れみたいなのが出てきてしまいます(出ない人もいます。その場合は、違う経験を思い出してくださいね)。

 すると、教えてほしいと思う人と、自分で解明していきたいという人に分かれますが、教えてほしいと言う人も、やはりどこかの時点では自分で解明していくということをやります。

 どちらにしても、自分で経験していく、自分で考えるという行為、これを試行錯誤と言ったりしますが、取り組むことになります。

 このとき楽しいのです。すぐにできちゃったら楽しくない。簡単すぎると楽しくない。

 少し難しくて、なんか出来そうなとき、とても楽しい。

 出来たときの達成感は喜びです。

 やったらできるようになった。嬉しい! という経験をするのです。

 

まとめ

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 学ぶとは、自分で選んだことを自分の力で解決し、自分の経験の一部とすることです。

 だから、教えてもらってばかりだと、経験する暇がないので、とてもつまらないのです。そして、別に自分が知りたくて教えてもらっているわけではなく、強制的に覚えろと言われている。

 そして、覚えなくてはならないという強迫観念が拍車をかけます。

 分かったら自分ができる子になったみたいで、その瞬間は楽しいと感じるかもしれませんが、すぐに次のプレッシャーとなってやってきてくれます。難しくなったら嫌だという心理はここから来るのでしょうね。でも、本当は力が付けば付くほど、もっと難しい問題を考えてみたくなるのです。そして、それまでの自分で解決するという経験が自信となっていますから、さらに、失敗などないという経験を通じているのなら、果敢に挑んでいける子、その課題を楽しいと感じられる子になります。

 

 最後に、勉強は楽しいという子を育てるために必要なことを知ったら実践してください。

 授業の中で、教えすぎないこと。ただし、教えることは教えます。

 授業の中で、考える時間を設けること。ただし、思考モードに入れる学級経営が必要。

 授業の中で、対話をする時間を確保すること。ただし、交友関係に安心感がなければできません。

 授業の中で、自分一人でじっくり考える事を奨励すること。ただし、自分で考えるのはエネルギーが必要です。だから、子ども達が生き生きしていなくはできません。

 授業の中で、自分の頭で考える事の大切さを何度も何度も繰り返し伝えること。そして、「大切だから何度も言うんだよ」と伝える事。

 授業の中で、点数や正解ではなく、自分で考えたという過程をおおいに励ますこと。教師自身がそれを経験していればベストですが、教師が経験していなくても、言葉で言うことはできます。

 

 どれも難しい実践です。でも、教師自身も経験しないことには分かりません。

 そして、この記事を読んで、「やってみよう」という人もいれば、「それはできない」と思う人もいるでしょう。私は、どちらを選んでもいいですよという立場です。ただ、勉強というのは本当は楽しのに、世の中は、その本当は楽しいものを楽しくないように仕向けているということを言っているだけです。

 

 最後に大切な事を付け加えておきます。

 私が「やってみても、やらなくても、どちらを選んでもいいですよ」と言っているのは、子ども達も同じだということなんです。子どもが何に興味を示し、どう考え、何を学び、何を経験することを選ぶのかは、子ども達自身が自分で決めるということです。自分で決めたことには意欲的になれるのです。宿題はやらされる勉強で、家庭学習は自分で勉強するということを決めてやる勉強だから、家庭学習は奨励します。ただ、家庭学習を強制しすぎると、それはやっぱり、家庭学習ですら「やらされている勉強」になり、楽しくなくなります。

 

 人は、生涯学び続けます。

 学ぶことが楽しいと経験できたのなら、生涯楽しく学ぶことが出来ますが、学ぶことはつまらないと経験したのなら、生涯辛くなります。

 小学校6年間、中学校3年間、たった9年間という短い義務教育期間でできることは限られています。私はほんの少しであっても、ほんの一部であったとしても、「自分で考えたり、自分でやってみたら楽しく、学ぶこと、勉強することは楽しいんだ」という経験を子ども達にしてもらいたいと考えながら授業をしています。