Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

新型コロナの本当の恐ろしさを理解した

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新型コロナウイルスって何なんだ?

 新型コロナウイルスの影響が、今年に入ってからずっと続いています。いったい、新型コロナウイルスって、なんなんだろう?と考えていました。

 随分前ですが、インターネットで調べてみましたら、新型なので、旧型というのがあるということが分かりました。過去にもコロナウイルスが登場していて、その5番目がSARSで、6番目がMARSということから、ニュースではよくSARSと比較されているのです。そういった、一般的なことが分かってもなお、新型コロナウイルスってなんなんだ?と考えてしまうのです。

 

 ウイルスに関する感染症ならば、人類の歴史はペストやエボラなど、破壊力のすさまじいものも経験しているはずですが、今回の新型コロナとは何が違うのだろうか?と、考えてしまうのです。

 

 新聞記事にも目を通していますが、専門家の方が、貴重な提言をいくつかしています。ある記事によると、(その記事はWHOに勤務している日本人ですが)エボラのようなウイルスは、発展途上国で広がったので、先進国の問題として真剣に取り組んでいなかったが(訴えたときの反応が薄かったそうです)、今回は先進国で広がっているということを指摘しています。

 なるほど、先進国と途上国という地域の問題はあきらかに違うのだろうなと。

 でもやっぱり、それだけでは新型コロナウイルスの本当の恐ろしさを理解しきれないので、また考えます。

 

 重症化に関しても、他のウイルスとは随分違うように感じます。

 エボラは本当にすさまじく恐ろしいものなのに対して、新型コロナはお年寄りや持病を持っている人が特に危険という条件つきです。さらに、およそ2割のクラスターと呼ばれる移してしまう人が存在するということ。それは逆に言うと、移さない人が8割いるということです。

 つまり、エボラは全ての人に危険であるのに対して、コロナは人によって違う。その結果、正直に言いますと、自分も含めて「自分は大丈夫なんじゃないかな」と、人々の油断を招いています。

 最近、よくやく、油断してはいけないという論調に変わってきましたが、自分も含めて、やはりどこか油断しているのではないかと思うわけです。

 

 コロナウイルスの最も恐ろしいのは、この油断ではないだろうかとまた考えていましたら、テレビのニュースで、米国のデモの話が取り上げられていました。

 それによると、自宅待機や外出禁止ということに反対するデモが起こっていて、人々はマスクもつけずに、外出禁止やロックダウンを解除しなさいと訴えているそうです。ちなみに、トランプ大統領は選挙を控えているため、そのデモを擁護しているとニュースでは伝えていました。油断しているというニュースです。

 なるほど、この油断というのがキーワードになるかも・・・・と思いながらまた考えます。

 

 学校は2度目の臨時休校措置に入り、公共機関は閉館し、児童館はやっています。

 学校は分散登校を検討しはじめ、各種行事の延期や禁止を決定、または検討しています。政府は一律10万円の配布を決め、PCR検査は様々な理由をつけて実施が限定的です。油断していないという事が起きたり、やっぱり油断していると思うしかないことが起きたり・・・・。

 うーん、新型コロナウイルスって、何なんだろう?とまた考えていましたら、突然、新型コロナウイルスの本当の恐ろしさについてひらめきました。

 

新型コロナウイルスが本当に危険な理由

 何をひらめいたかというと、これまで述べてきた内容を繰り返し考えていたら、突然全て繋がったということです。上記の出来事はバラバラではなく、すべてひとつの方向を向いているという気づきなのです。

 そのことについて述べてみますが、あくまで、私個人の見解であることを最初に断っておきます。本当に詳しいことは、専門家に聞かなければ分かりませんから。

 

 まず、人の悩みの分野で大きいのは、次の3つでしょう。

 ・健康に関すること

 ・お金に関すること

 ・仕事に関すること

 究極的には人間関係が絡んでいますし、最終的には「生」と「死」の問題です。

 

 エボラ出血熱は、破壊力がすさまじいので、「命が最重要」と、誰でも理解できます。もう、お金がどうとか、仕事がどうなんて言っている場合ではないのです。

 だから、命(健康に関すること)が最優先され、人々の意識はひとつになりやすく、究極的な人間関係においては、一致団結ということが起こります。

 

 しかし、今回の新型コロナウイルスは、上記で示した諸分野がすべて、緩やかに進んでいます。緩やかである上に、全ての分野(健康・お金・仕事)に関与しています。

 

 自分は大丈夫ではないかという油断、クラスターと呼ばれる存在、自粛要請や統一感のない規制、予測しにくい今後という不安。そして長期化。そう言った要素は、人間関係も緩やかに、そして確実に蝕みつつあるのではないでしょうか。 

 

 健康なときは、健康のありがたさが分からず、お金があるときにはお金のありがたさが分からなく、仕事があるときは仕事のありがたさが分からない。

 もし、それらが瞬く間に本当になくなれば、本当に有り難かったのだと、純粋な気づきが生まれるのでしょうけれども、緩やかに影響していくので、とりあえずは防御態勢、つまりできるだけ失わないように意識が向くのでしょう。

 

 先ほども述べましたが、エボラのような破壊的な威力がない分、大丈夫な人はどこか人ごとになってしまいがちです。ちょうど、WHOで勤務していた人の記事が指摘するように、途上国で起こったことならば、先進国の人の関心は要望よりも薄いということが、日本という同じ国内でも起こっているのだと理解します。

 

 そして、以上のことをまとめると、新型コロナウイルスの本当の恐ろしさは、

 人々の意識がひとつになりにくい

 ということなのだろうという結論に至ったわけです。

 そして、現実社会も、そのことに苦労しているという現象が起きています。

 

 人々の意識がひとつになれば、収束も見えてくるのでしょうけれども、深くよくよく考えてみると、この課題はなかなか容易な事柄ではないように思われるのです。

 容易ではないのだろうけれども、それに挑戦し、経験し、本当に大切な物は何なのかに気づいく人は増えていくのだろうと、私は考えています。

 

 新型コロナウイルスが

「君たちは、一致団結した意志を持つことができるのかい?」

 と聞いているのです。

「もちろんイエスです。でも、もう少し時間がかかるかもしれません。」

 と言うのが、今の私の精一杯の答えです。

 

 

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