(2019.11.06 子育て「所有」をリライト)
優しくて思いやりのある子、みんなから愛される子になってほしいと親は願います。その中の1つである「嬉しさ分け合える子」について書きます。その具体例として、きょうだいを持つお子さんを持つ親なら、必ずと言っていいほど遭遇する問題である「所有」に関して考えてみます。玩具の貸し借りからおやつの奪い合いなど、日常茶飯事である現象を解決できるかもしれません。
お姉ちゃんのものがほしい
3歳の娘は、必ずお姉ちゃんのものをほしがります。
これは、仕方のないことです。
妹は、お姉ちゃんのものが欲しいのです。
物は何でもいいのです。
お姉ちゃんが持っていると欲しくなるのです。
これがお家の中で起きているだけならば、さほど気にはなりません。
(ひどい場合はなるでしょうけど。)
ところが、外やお友達が来たときに、そのような状態になると
「うちの子はわがままだ!」
「おもちゃを貸さないなんて、心の狭い子になっている!」
「自分では食べられない量のおやつの袋をもっているのに、けちんぼに育ってる!」
「そんな風に育てた覚えはない!」
とまあ、こうなります。だけど私は、それは必要な経験だという考えなのです。
少し深く考えてみると、次のような本質的な答えが見えるからです。
所有していなければ分け合えられない。
お金を持っていない人は、あげられないし、お腹が減っていて、さらに食べ物がない、自分が飢えているのならあげられない。
「いえ、そんなことはありません。自己犠牲という美徳があります。」
という声が聞こえてきそうですが、まずは自分が基本です。
借金をしてまで貸すことや、自分は飢え死にしても人のためなんていうのは、美徳が過ぎます。過ぎる美徳は、すでに美徳ではありません。
ですから、分け合えられる人は、まずは自分が持つことです。大人でもそうなのですから、3歳ぐらいだと、ますますそうでしょうね。
だから、いっぱい所有して、自分が満足して、嬉しくて、自己肯定感が高まると、他の人にも、この喜びを分けてあげたい、自分が嬉しいから、みんなにも嬉しさ分けてあげたいと思うのです。
お姉ちゃんのおやつを無事に確保した3歳のチビ姫は、そのおやつはお姉ちゃんのものだというのに、すっかり自分の物にして、
「ひとつあげるね」とか「もっとほしい?」とか、上機嫌で分け与え始めます。
そんな時、お姉ちゃんはたいてい、
「それ、もともと私のだからね!」
と、笑いながら怒っています。
所有は自然な感情
所有したいという小さな子の思いを楽しみながら育てると、必ず人と分け合える喜びを学びます。なぜなら、自分が持っていることは嬉しいことだと学ぶので、人も嬉しいだろうとなるからです。
けちな人ってね、たいていは、持っている物を無理矢理奪われた人です。
無理矢理は言い過ぎかも知れませんが、強制的に分けることを強いられた人です。
強制的も言い過ぎかも知れませんが、それが優しさだと言われた人です。
このあたりだと、納得できるかも知れませんね。
人は奪われるから守りたくなるのです。
奪われたらなくなるという経験をし続けた結果、けちんぼになるのです。
小さな頃から、自分の意志で分け合うことの喜びを経験し続けると、やがて本当に理解し始めます。何を理解するのかというと、自分一人が嬉しいよりも、みんなで嬉しい方が、結局は自分の嬉しいという気持ちは大きいということをです。
嬉しさを分け合う子に成長してほしいのなら、十分に与え、そして受け取り、他者が喜んでいる姿をたくさん見せて経験させることです。
おやつを与え、お母さんがもらい、とっても嬉しいということを繰り返し経験させるのです。決して奪わず、子ども自身の意志を尊重することがポイントです。
おもちゃを与え、一緒に遊び、楽しいと伝えることです。貸してと言われれば貸し、お母さんもたくさん貸してもらうことです。お母さんは「ありがとう」を言うために貸してもらうのです。
本来、人は十分に満たされたときには、それを周りに配りたくなるものです。
そして自分の周りに嬉しさを見た人は、さらに嬉しくなるものです。
自分が十分に満たされたいというのは自然な感情です。
分け与えるために満たされたいが真実です。
花の香りのように
花は素敵な香りがします。
その香りは、風に乗って周りに広がります。
その香りに触れた人は、つい嬉しくなってしまいます。
きっと、嬉しくなった様子を見た花は、さらに嬉しくなるでしょう。
どんなに良い香りだとしても、風によって周りに運ばれなければ、その香りは凝縮され、やがて花自身にも耐えられないほどの臭いとなり、花自身も苦しめてしまう香りになってしまうことでしょう。