Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

普通という言葉に潜む罠

普通


 普通はこうだとか、一般的にはこうだと言って、安心したり心配したり批判したりするのが普通でしょう。しかし「普通」って具体的には何かについて、少し深く考えてみると、大変ややこしいと理解できます。その人が言っている「普通」は、あくまでその人が見た限りの普通だからです。「普通」について、私の知っていることをお裾分けします。「普通」の原理原則が分かれば、少しだけ楽な気持ちで生きていけるようになるかもしれませんから。

 

普通とは何か

「普通」というのは、たいていの場合そうだということです。あるいは多くの人が賛同する考え方ということにもなります。それは、良いとか悪いとかの基準も作用しますが、そもそも正しいかどうかまでは言及していません。社会が概ね良いとすれば、多くの人が賛同し、「普通」という定義がなんとなくできあがるので、時代や地域、国によっても「普通」の概念は大きく変わります。

 単純な例として、スポーツでは練習中に水を我慢するのが普通でしたが、今は飲むのが普通です。日本の学校では、子ども達が掃除をするのが普通ですが、諸外国はしないのが普通です。普通の総称が文化として定着する面もあるのでしょうね。

 これらのことを総合的に判断すれば、「普通」というのはかなり怪しいという事実が出てきます。多くの人が良いとしたとしても、それが「正しい」とは限らないからです。「普通」と「正しさ」は違います。

 では、「正しさ」とは何かというと、一言で言えば「自然」です。「自然である姿や存在」は常に正しく存在している。そして、普通とは常に人が判断しうる限り、自然に反することが多いというのも事実です。

 つまり「普通」とは「不自然」であり、「自然」とは「普通ではない」ということになります。

 親が、我が子に対する思い(くだらない遊びをしないで勉強すること)が普通であると思いたい気持ちは分かりますが、不自然です。子どもは遊びたいのです。

 他にも、普通の家族、普通の仕事、普通の預金額・・・などなど。

 ここで言う普通は全て「一体何だ?」という思いに駆られることでしょう。

 ある人にとっては普通であっても、別の人にとっては普通ではないのだから。

 だから結局、普通というのは、ひどく曖昧であるということです。

 ただ、人は「普通」という言葉を使うと、自分の考え方を正当化しやすくなるので、使いたがるということなのだと思います。

 

普通は社会が決めた価値判断にすぎない

考える


 では、「普通」という状態をもう少し深く追求してみます。

 まず、「普通」というのは数値であるというのが私の考えです。

 

 平均年収、平均寿命、偏差値などの中央値や、人口に占める年代別推移、エンゲル係数などの割合などがそれにあたります。

 

 客観的な数値で、世の中のおおよその数を知ること。これによって「普通」という概念がはかれるのだろうなということです。客観的データですから、揺らぎようのない事実です。このような数に関して、普通という言葉は当てはまります。ただし、目に見える世界に限ります。

 

 見えない世界、精神世界に関して言えば、この普通はかなり怪しくなってきます。「ラインをしたらすぐに返してくれるのが普通だ」なんていうのは、個人の問題ですし、「お盆には帰省するのが普通だ」なんていうのはそれぞれの家族観の問題です。友達は多い方が良いとか、勉強はできなくてはダメだとか、人には親切にしなくてはいけないとか、あげればきりがありませんが、「良い」とか「悪い」と人が言う時に、この「普通は」という言葉を、自分の意見を正当化するために利用しているに過ぎないのです。

 

 ですから、もし自分の考えを人に伝えたときに「えー、それは普通じゃない。」と言われたとしても、気にすることなどないのです。人の持つ世界観はみんな違うわけですから、そこで否定するための材料である「普通」は存在していないのです。ただ、考え方が違うというだけです。

 

子ども達が言う「フツー」

 最近、子ども達に質問すると、なんでも「フツー」と答えます。

「最近、勉強がんばってる?」→「フツー」

「何して過ごしたの?」 → 「フツーに過ごしました。」

「気分はどう?」 → 「フツー」

 もう、日本語が乱れまくっています。それは普通ではなく、考えることをしたくないと言っているだけです。そして、「フツー」と答える君は、すでに「普通」ではないのですよ。

 

 最後は、少し批判的な書き方になってしまいましたが、私は批判していません。事実のみを伝えています。最近、子ども達が考えることをしなくなってきたという事実のみです。ただの割合の問題です。昔よりも言葉を使って自分の気持ちや考えを伝えようとする子ども達の割合が激減しているという事実。それが大衆化すれば、その「フツー」は「普通」に格上げされることでしょう。

 でも、その「普通」は「不自然」です。

 子ども達はおしゃべりが好きで、人は誰かに話を聞いてもらいたくて、人間はコミュニケーションを経験していく中で成熟していきます。これが「自然」です。

 

 我々大人が子ども達にできることは、なるべく「自然」な姿を子ども達に伝える事ではないでしょうか。そして、それにはまず、自分自身が「自然」な姿になることだと考えるのです。

「普通」という言葉に惑わされず、何が正しくて、何が真実なのかを見極めようとすれば、「普通」が曖昧であることを理解し、自分自身ももっと豊かに生活できるようになるはずです。

 

「普通がいい」という病 (講談社現代新書)

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  • 作者:泉谷閑示
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