Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

解釈によって全て変わる

解釈


 ある日、大粒のヒョウがが降ってきました。

 子ども達は大騒ぎで、あまりの凄まじさによって泣く子もいました。

 私は泣いている子に学校は安全である場所であることを伝え、泣いている子にはその理由を聞いて、大丈夫だと励ました。

 

 後日、ある男の子の保護者との面談があった際、その話題になりました。

 保護者ラインネットワークによって、すでにその事実を知っていた母親は「うちの子は泣き虫だから、怖くて泣いたんじゃないの?」って思っていたようです。

 我が子は男の子なのに、たかがヒョウごときで泣くなんて、弱虫だわというようなニュアンスでした。そこで、私はその男の子が言っていたことを説明しました。

「実は、その日、お母さんとお姉さんが病院に行く日だとかで、心配して泣いていたんです。だから、車に乗っていても安全だし、建物の中も安全だし、お母さんがいるのだったら、安全な場所にいるから、大丈夫だということを伝えたんです。怖くて泣いたのではなく、お母さんとお姉さんが心配だと言って泣いていたんですよ。」と。

 

 すると、お母さんは急に涙ぐみ

「そうだったんですか。何か、急に感動して涙が出そうです。」

と、これまでの事実の解釈が180度変わってしまいました。

 泣き虫な我が子から、心優しいわが子への変換です。

 

解釈によって全て変わる

 上記の出来事は、人の解釈によって受け取り方が全く変わってしまうということを物語っています。目に見える事実は、「その男のはヒョウが降った時に泣いた」ということだけですが、その理由を知ることによって、受け取り方の解釈が変わってしまったのです。

 こういうことは、日常茶飯事的にあります。

 人は目に見えることに翻弄され、その理由について深く知ろうとしない。

 物事には必ず理由があり、その理由も全てを知ることは難しく、大抵は一面を切り取って知るくらいしか出来ません。そして、深く理由を知ろうとせずに、一面を知っただけで全てを知ったかのように感じ、自分なりに解釈し、本当の理由を知る前に善悪を判断してしまいがちなんです。

 

 そもそも、人という存在自体が多面的です。

 その一面を切り取って考えるのは楽でしょうけれども、人は多面的に複合的に絡み合っている存在であり、さらに他者が関わることによって複雑さが増す関係でもありますから、正しく解釈することは難しいのです。

 ある人にとって「優しい人」が全ての人にとって「優しい人」とは限らず、あるいは、ある人にとっては「優しい」が、他の人にとってはただの「おせっかい」ということもあります。

 つまりは、受け取り側の解釈次第であり、その受け取り側の解釈の仕方についても多面的であり、複合的であり、良くも悪くも人によるということです。

 

 こんがらがってきましたね。

 相手の複合×自分の複合の組み合わせにより解釈が起こるのだから、感じ方はどうしようもなく人によるということです。

 

 ならばどうすれば良いのかということになります。

 1つは、ありのままを受け取り、良いだとか悪いだとか判断しないこと。

 1つは、理由が必ずあるので、聞けばすむこと。

 1つは、自分の解釈を自分で考え、なぜそう解釈するのかを自問すること。

 1つは、他人の意見は他人の意見として聞き、自分の頭で考えてみること。

 1つは、知ろうとすること。

 

 出来事は、その人の解釈によって様々であり、いかようにも自分で解釈することができると知っているだけで、世の中の現象を客観的に正確に見つめることが出来るようになるかもしれません。

 

 

  客観的に野鳥観察すれば、何か分かるかもしれません。