Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

傾聴の限界

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 カウンセリングは傾聴を基本としています。ロジャーズという人が、共感的理解という理論を立て、来談者中心という考え方が基本路線となっています(うる覚えですが)。難しい理論は横に置いておくことにして、簡単に言うと「話を聴く」ということに集約されます。ですから、話を聴ける人は重宝され、話を聴いてもらった人はすっきりするということが起こり、カウンセリングというのは大変効果的であるということになっています。

 今回は、この普遍的真理だと思われていることに一石を投じることにします。その一石はカウンセリングの否定ではありません。傾聴の限界を知ることで、その続きがあるということの理解を促したいのです。これを理解するのはとても難しいでしょうけれども、もし実践できたら深い理解に繋がることだけは保証します。

 

傾聴とは

 まずは、傾聴の理解をしておく必要があります。傾聴そのものは、大変深い理論になっていますが、ごく簡単に、なるべく分かりやすく説明します。

 ただし、本来は深いものを浅く説明するわけですから、分かりやすくは説明しますが、分かりやすい分、浅いということもご承知おきください。

 

「話を聞く」ということと「話を聴く」ということは違います。

「聞く」と「聴く」の違い。

「傾聴」を知るための大原則だと押さえてください。

 

 それは、音声として聞いているのか、相手の気持ちに耳を傾けて聴くのかの違いと、理解してください。ほとんどの人は「聞く」ことはできても「聴く」ことは難しいのです。「聴く」ためには「共感的理解」というものが必要であり、「共感的理解」というのは、「相手と共感・共鳴して聴く」ということであるため、「相手と共感できる」ということがその前提としてあります。

 それは、自分の考えを捨て、自分の価値観を脇に置き、相手の気持ちをそのまま受け止めるということになります。

 もう、これだけで難しいことが分かると思いますが、そのための技術がたくさんあり、その一つ一つが深い理論と理解を土台としています。

・相手の言葉を繰り返す

・否定しない

・気持ちを聴く

・うなづく ・・・等々、かなりたくさんあります。

 しかし、これらもまた技術に過ぎず、表面的に過ぎません。表面的には取り繕うことはできますが、表面上の技術を駆使して聴くということがそもそも共感できていないのです。うわべとして「聴く」という態度は示せるでしょうけれども、本当に話を聴いてもらいたい人はすぐに見抜きます。

 ですから、本当に「聴く」ことができる状態の人は、もう、それだけ凄いということになります。本当に苦しい人は、聴いてもらうだけで楽になりますから。

 カウンセリングは、苦しんでいる人を助けているのですから、否定のしようなどありません。それは善意であり、人を助けたいという愛が動機ですから(たまに違う例もありますが、カウンセリングで人を助けたいという人は、必ずこの愛の動機を持っています。そうでなければ、カウンセリングそのものに興味を持ちようがありません)。

 

「傾聴」を本当に自分のものにするには、たくさんのことを自分に課さなければならず、あるいは、自分が苦しかったことを糧にしている場合も多いため、「傾聴」できるというそのこと自体が、すでに尋常ではありません。尋常ではないという単純な理由から、本当に「傾聴」できる人は、それほど多くはいません。1万人の中に1人ぐらいではないでしょうか。う~ん、もっと少ないかも・・・。

 

傾聴が果たすの本当の役割

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C1「だから、俺、言ってやったんだよ!」

C2「・・・そうなんだ。」

 

「傾聴」によって、相手は楽になります。共感してもらえるからです。それはあくまで、相手が中心に話を進める必要があり、それが「来談者中心」という考えの根幹となっています。

 簡単に言うと、話の聴き手は、ただひたすら相手の話を相手のペースで聴くということです。聴き手は、相手が話しやすいように促すだけです。

「話を聴いてもらって楽になりました。」と、聴いてもらった人は言うことでしょう。一般的には、そのことによって、自分自身が何かに気づけるようにするということに繋がっていきます。気づきを促すということがカウンセリングのねらいと言ってもよいでしょう。

 つまり、傾聴はその入り口にすぎないということで、本丸は自分自身の気づきを促すというところにあります。だから、話を聴くだけでは、本人の助けになるための限界があるのです。

 しかも、「聴く」に留まった場合、本人にとって害になりうる場合もあります。なぜなら、聴いたもらったことで楽にはなるでしょうけれども、苦しくなった根幹部分は何も変わっていないのですから、再び苦しくなるということです。

 すると、また聴いてもらいたいということになり、聴いてもらったら楽になり、しばらくすると、また苦しくなるということを延々と繰り返すことになってしまいます。それはやがて「依存」という、新たな問題を生み出すことになり、その「依存」は「自立」を妨げてしまいます。

 ですから、あくまで「傾聴」は入り口という認識が必要になります。「傾聴」は「一時的ではあるけど楽な状態にする」あるいは「一時的ではあるけど苦しみを軽減させる」というのが本当の役割です。

 

傾聴の続き

 カウンセリング的に言うならば、自分自身の気づきを促すということになります。自分の本当の気持ちに、自分で気づかせるようにすることです。その気づきを促せる人は、さらに少なくなります。10万人の中に1人ぐらいではないでしょうか。

 では、なぜ「傾聴」によって自分自身の気づきが可能になるのかということを簡単に説明します。ただし、簡単に説明はしますが、理解は難しいと思います。自分が苦しんだ経験のあるひとなら理解できると思いますが、そうではない人にとっては、理解はほぼ不可能なぐらい難しいです。それは「苦しみ」というものの理解も必要だからです。「苦しんだ経験」がない人は、「苦しみ」というそのものが分からないという理由から、理解が不可能なくらい難しいのです。

 

 カウンセラーのような人に話を聴いてもらいたい人というのは、自分ではどうすることもできずに苦しんでいます。どうして苦しいのかも自分では分からないという状態です。表面上は何かのせいにすることはできますが、その苦しみの原因は、たいてい表面上のことではないので、表面上の事が解決したとしても解決しません。

 しかし、本人は表面上のことが原因だと思っていることが多く、自分が本当はどう思っている、あるいはどう感じているのかということを自分で分かっていません。

「傾聴」は、その表面上にある「苦しみ」を取ることができます。取るというのは適切な表現ではありませんね。出させるが適切でしょうか。まあ、言葉はなんでもよいのですが、持っている「苦しみ」を本人に表出してもらうということです。

 表出すると、一時的にではありますがなくなります。ちょうどコップの水がこぼれ落ちたように、水がこぼれた分だけコップにはスペースが生まれます。あるいは、濁った水で「苦しみ」を例えるなら、濁りが薄まった分だけ、コップの底が見えます。

 まあ、例えも何でもよいのですが、表面上にある「苦しみ」がなくならなければ、自分の本当の気持ちに気づくことは不可能であるということです。いくら覗こうとしても、いくら見つけようとしても、表面上にあるものが邪魔をしているからです。

 

 ですから、「傾聴」で相談者の「苦しみ」というものを軽減できたのなら、気づきを促すというのがその続きになるわけです。すると、何に気づけばよいのかということも問題になってきます。自分の本当の気持ちだというのがその答えになりますが、そもそも、自分の本当の気持ちってなんなんだろう?ということ自体も、何層にもなっているため、一筋縄ではいきません。しかも、自分で気づくというのは、本当に時間がかかる作業で、進んだかな?と思ったら戻ったりもします。行ったり来たりしながら、更に苦しくなるなんていうことも起こります。

 ですから、その度に「傾聴」によって、一時的な苦しみを癒し、少しずつ気づきを促していくということになるのです。

 

気づきを促す者

 気づきを促すのが傾聴の続きであることを述べてきました。

 これに違った側面も加えて、今回の記事を終えることにします。

 それは、話を聴いてもらった人は、2つの理由から話を聴けるようになります。

 第1の理由は、悶々とした気持ちがすっきりするので、相手の話を聴けるゆとりが生まれるということです。再びコップで例えると分かりやすいかもしれません。コップに水がいっぱいなのに、新しい水など入りようがないのです。

 第2の理由は、話を聴いてもらった分だけ、その人から話を聴くことができるということです。まるで話を聴いてくれない人の話を聴ける人はいません。もしいるとしたら、それは恐怖による強制か、ご褒美によるえさ釣りです。それこそ「聞く」ことはできるかもしれませんが「聴く」ことは不可能です。

 人は与えたものしかもらえないのです。

「聴いた」人だけが、「聴いてもらえる」と、簡単に理解しておけばよいでしょう。 

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女性「あなたの話なんて、もう聞きたくないわ!」

男性「ああ、全く同感だね。俺の話だって聞いてないじゃないか!」

 

 人はみんな、ほぼ例外なく「聴いてもらいたい」と思っています。

 ただ、聴ける人がいないのが現状です。

 だから「聴いてもらいたくなどない」と言ったりもします。聴ける人がいるなら、聴いてもらいたいのです。いないから「聴いてもらいたくない」と言っているだけで、それは単に「聴ける人」がいないと言っているだけです。

 本当の「傾聴」まではいかなくても、「聴こう」とするだけでも大丈夫です。それは、傾聴の技術がなくても大丈夫です。むしろ、技術に頼っている方が危険です。

 傾聴とは、相手の心を知ろう、理解しようとする愛ですから、本来的には技術は必要ないのかもしれません。そして、時間はかかりますが、傾聴できたら話を聴いてもらった人は自分で進み始めると信頼することです。気づきを促すというのは、その速度をはやめるだけで、本当はゆっくりでもよいのです。

 「傾聴」は入り口に過ぎず、その限界もありますが、必ず通過しなければならない門みたいなものと考えておくとよいでしょう。門に例えることで、「傾聴」は入り口でもあり出口でもあるという理解にも繋がりますね。

 

 傾聴は難しいので、とりあえず漫画でどうぞ・・・と書いた瞬間に、この記事を最後まで読まれた方なら、漫画では満足しないことに気づきました。慌てて、オススメの本を変更しますね。

 國分先生は、日本のカウンセリングの第一人者であると、私も昔薦められたので、みなさんにもオススメします。ちなみに『カウンセリングの技法』は、私も持っています。持っているだけですが・・・。