今日は自然と不自然のお話をします。様々な書籍を読みあさると、自然体でいることの大切さがよく書かれています。まあ、そうなのでしょうとは思います。しかし、もう一歩踏み込んでみると、その自然体は動物とは違うし、植物とも別物の自然体であることを理解することになります。軽い記事ですので、軽い気持ちで読んでください。
自然から不自然へ そして 自然へ
1 自然に存在する自然体
花や木々、山々や天気、あるいは昆虫や動物など、人以外の生命体は自然体で生きています。人はその様子を見て、人も自然なのだから、その状態が良いということに至ることもあります。自然と共に自分も自然に生きるということを言えば、とてもかっこよく聞こえるし、何か悟りを開いているようにも見えます。
しかし、人以外の自然の状態になるということは、とりあえずは人で在ることを放棄するということになります。人以外の自然は何も考えていない自然です。意志はありますが、思考というものは存在していません。ですから、自然体になるというのは、身をゆだね、何も考えることなくただただゆったりと暮らしてゆくというイメージになると思います。
2 不自然の発生
思考は人だけが使える道具です。チンパンジーやら猿やらカラスやらの高等動物に関しては、若干の思考はあるのかもしれませんが、人の比にはなりません。この思考できるという能力のおかげで、人は不自然になります。不自然が行き詰まり、幾多の困難を乗り越えていくと、やがて自然にその答えを見いだすことがおおいにあります。それは、不自然を経験することでしか気づくことが出来ない代物ではありますが、ポイントは、人だけが不自然を経験できるということです。
3 不自然を越えた場所にある自然体
人は全くの自然体でこの世に生まれてきます。そして家庭環境やら学校教育やら社会全般から様々な影響を受け、多くを学び、どんどん不自然へ向かっていきます。
その不自然は居心地がよいわけではありません。それで自然体への憧れみたいなものを抱き、一部の人は自然体への道を進むことになります。
不自然は通過するもの
さて、上記の1~3を見ますと、人は2の不自然を通過するということが分かると思います。もう少し詳しく言うならば、人であるならば、必ず2の状態には行きます。問題はそこから1に戻るのか、3に進むのかということです。
鳥は自由だから、自分も鳥のように自由に飛び回りたいと願うこともあるでしょうけれども、鳥にはなれません。当たり前ですが、鳥にナリタイなんて、鳥は考えてませんからね。人だからそんなことを考えたりするのです。すなわち、1に戻ることはできないのです。理由は人だからです。
それでも1に戻ろうとするならば、それはやはり人であることを放棄すると言わざるを得ないでしょう。越えるのではなく戻ろうとする・・・と、まあ、精神的にはそのようにはなるでしょう。生きてはいるけど生きてはいない。これは言い過ぎなので、もう少し柔らかい言葉に置き換えると、生きてはいるけれど、生き生きとは生きていない。あるいは人として生きていないという状態に憧れているということです。別にしてもいいですけどね、きっと深いところで後悔はします。
理由は、できないことをやろうとするからです。
人の自然体は別物
自然体という事だけで言えば、植物であろうが動物であろうが人であろうが同じです。ただし、その中身は全然違うということです。はじめから自然で、その自然のまま優雅に生きているのが自然界の自然です。はじめは自然だけど、不自然を通過して、自然の良さに気づいて自然体になれるのが人の自然です。
自然体としては同じだけど、同じではない。
ですから、猫になりたいとか、何も考えないでのんきに暮らしたいとか、そういうことは進み方としてすでに不自然なので、人として生まれたのなら、自然に逆らわずに不自然を越えて自然に至るのだと知っておくと便利でしょう。無駄な悩み(ねこになりたいとか)が1つ消えるからです。
そろそろ春です(北海道は、ですが・・・)。
外にお出かけなんてことも増えてきたりもすることでしょう。
自然を感じながら、その自然の恩恵を受けながら、人としての自然体が感じられるといいですね。私も朝の散歩でも再開しようかな?と、ふと思い立っています。