波は外側の影響を受けて起こる。
穏やかな天気であればさざ波となり
荒々しい天気になれば荒波となる。
私たちはまるで波のようである。
波はその波そのものに更なる影響を受け
大きくうねり
やがて岸にたどり着くことで消えてゆく。
風がやみ、外側の影響がなくなってもなお
しばらくの間、波は穏やかにはならない。
私たちはその波そのものを自分だと思っている。
しかし私たちは波ではない。
波は外側の影響によって起こる1つの形態であって、
波は海の表現の一部である。
私たちは波のようであるが波ではない。
私たちの本体は海なのである。
外側に起こる様々なことに影響を受ける私たちだが、
ある人の波は大きく、ある人の波は小さい。
起こっていることが同じであっても波の大きさは違う。
それは、どれだけ自分が海であると知っているかにかかっている。
本当に穏やかな人は、外側に激しい現象が起きたとしても
自分は海であると知っている人である。
外側の現象は自分とは関係ないと知っている。
外側に起こる現象に影響を受けている波は、常に表面的だからである。
穏やかなふりをしている人は、波が起きているにもかかわらず
それを表現できないようにしている人である。
そういう人は、岸にたどり着くことで消滅する波を起こしていない。
その波は波自身が干渉し合い、さらに大きな波を生み出す。
行き場がないのだから、やり場がないのだから、大きくなるしかない。
だから苦しいのである。
だからやり場を見つけたときに激しいのである。
私たちは波のようなものであるのだから、波を岸にたどり着かせ、表現することで消滅することを繰り返すしか方法はない。
波を感じないようにするのはおすすめできない。
でも、もっと高次の境地に達したいのなら、
波のようではあるが波ではないと知ることである。
そして波そのものを楽しむこと。
その境地は子ども達を通じて見ることができる。
小さな子が泣きじゃくっているとき、その波を楽しんで見ること。
しばらくすると、泣きじゃくっていた子はすっきりとおさまり、再び遊び始めるだろう。それは波がなくなり、再び海になったということである。
砂浜を見てごらん。
大きな波であっても砂浜にたどり着く頃にはまるで溶けるように小さくなり、
波が消えてゆくさまを見ることができるうだろう。
そして波が消え去ったあとに残ったものは海の一部であり、
ゆっくりと海そのものへと還ってゆく。
その波をはるか遠くで消滅させることはできず、
岩にぶつかると激しく飛び散るほどにバラバラになってしまう。
私たちは岩でなはく砂浜でありたい。
自分の波を肯定的に見てもらえた子は、波が自分だとは思わなくなってくる。
波は海の表現の一部であるということが体験され続けている。
それが自己肯定感を育んでいる。
自分は波のようではあるが波ではない。
言葉にではできなくても、説明できないだけで感覚として備わる。
さあ、波に翻弄されるのはやめよう。翻弄されるということは、自分は岩になっているということだから。
波が相手だと思うのをやめよう。表現されていることは海の一部にすぎず、海そのものではないのだから。
自分が自分の波に同化するのをやめたとき、それは可能になる。
でも、そこまでは待っていられない。とりあえずは楽しんでみよう。
ああ、また泣いている。
「泣いちゃダメ」と言っていたのなら、やめよう。
満足いくまで泣かせ、表現させ、そして伝えよう。
「それでもいいんだよ」と。