Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

本当の事が知りたければ・・・2

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 本当の事とは、言葉を言い換えれば「真実」とか「真理」とか、ちょっと崇高な表現もできます。前回の記事では、本当の事を知るためには、まずは「違和感」を理解するという内容でした。「違和感」は「直感」とほぼ同意義だと捉えてください。今回は、その「違和感」を大活躍させながら、本当の事を知りたければどうすればよいのかという具体的な手順を解説します。ただし、本当の事を知ったから良いという問題ではなく、ただ「本当の事を知ることができた」というだけです。これを自分の人生に役立てることで、あらゆる現象が繋がってきますが、それは「気づき」が鋭くなるというだけで、別に良くも悪くもありません。もしかしたら、ややこしいことまで見えちゃって、「知らなければよかった~」なんてこともあるかもしれません。それでもOKなら読み進めてください。本当の事を人生に役立てられるのなら、この記事は役に立つはずです。

 

本当の事は評判が悪い

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「なんて風当たりが厳しいんだ~!」

 

 具体的な手順を解説する前に、あらかじめお断りしておくことがあります。それは、「本当の事は世間から見れば評判があまりよろしくない」という事実です。評判が良くないという単純な理由で、本当の事は隠され、本当ではないことがもてはやされているのです。あるいは、本当のことは都合が悪いので、都合が良いように改ざんされているという側面もあります。

 ですから「本当ではないこと」が悪いということでもないのです。多くの人が使いやすいように、便宜上改ざんしているので、社会を形成する上では役に立ってきたのです。ただ、便宜上改ざんされていると理解して使うのと、それが真実だと思って使うのでは、かなり違ってくるので、私のお勧めは「本当の事を知って、あえて本当ではないことも活用する」ということになります。

 

 さて、前回の記事では、そのごく一部として、次の3点を指摘しました。

1 厄払いは祓えていない。

2 みんなの意見の一致は存在しない。

3 年上や先輩は生まれた年を言っているだけで、成熟とは関係ない。

 上記の3点だけでも、評判が悪そうだということが分かると思います。

 この3点だけでも、私の意見を主張しすぎると都合の悪い人が出てきてしまいます。都合の悪い人にとっては、私の意見を認めるわけにはいきません。しかし、本当の事なので説得力という点に置いては論破できません。結局、あいつは何だ!みたいな感じで、意見そのものではなく、私自身が評判が悪くなるという運命にあります。

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 以上のことを踏まえて「本当の事を知るため」の手順の解説をします。

 

ステップ1 知ること

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「なるほど、そういう事だったのか! 俺は蜘蛛だったんだ!」

 

 本当の事を知るためには、反対のもの、つまりは「本当ではないこと」を知る必要があります。「違和感」は「本当ではないこと」に遭遇しないことには発動しないので、まずは何でも知ることからスタートします。

 知る方法は身近に溢れるほどあります。読書でもいいですし、会話でもいいですし、社会現象でもいいです。知識として知るということが必要になります。本当の事だけを知るということは難しいのです。「本当ではないこと」が存在しないと「本当はどうなんだろう?」ということも起こらないからです。

 また、読書や会話の中には、本当の事があったりもしますから、玉石混淆のように素直な気持ちで吸収することです。素直というのがキーワードになるかな?

 素直というのは、何でも信じちゃうということではありません。自分の考え方に固執しない、先入観を持たずにということです。

 人はどうしても「自分が見たいものしか見ず、自分が聞きたいことしか聞かない」性質があります。でもそれでは幅が狭くなってしまいます。幅広く知識を吸収していくことが大切になりますから、ある程度分かるようになるまでは、素直に受け取る必要があるということです。

「人は見たいものしか見えない」という内容の関連記事を貼り付けておきます。詳しく知りたい方は寄り道してください。

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ステップ2 疑うこと

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「ほら、おいしいからお食べ。」「その赤いのあやしいな~。」

 

 知り得た知識を疑うこと。ここが最大のポイントになります。

 疑うきっかけになるのが「違和感」です。

「みんなの意見」とか「世間の常識」みたいなことは一切無視します。あくまで自分が持つ「違和感」に信頼を寄せ、先入観を捨てます。疑うための方法もいくつもありますから、自分ができそうなことをやってみることです。具体的には次のようは方法になります。

・「もしそうなら」と考えてみる。

 もし健康食品を食べていたら健康になるのなら、身近にいるあの人は不健康食品を食べているのに、元気なのはおかしいぞ?みたいな感じかな?

・「そもそも」を考える。

 そもそも年上とか年下というのは・・・・みたいな感じかな?

・「逆」で考える。

 勉強が大切であるのなら、勉強をしなかったらどうなるのかな?とか。

・「なかったら」を考える。

 ルールやマナーが分かりやすいかな?もしなかったらどうなるのかな?と。

 友だちは必要であるというのが本当か?も、友だちがいなかったらどうなのかな?という具合に考えることです。

・「なんでかな?」と理由を探る。

 なんで勉強しなきゃいけないんだろう?とか、なんで成人式を18才に引き下げるのだろう?とか、ありとあらゆるところにあります。

 

 他にもたくさんありますが、要は哲学的な感覚になってきます。

 本質的なものを探る作業です。

 

 このあたりで「信じる」ということを捨てる感覚が養われてゆく、つまりは「違和感」や「直感」と呼ばれるものが磨かれていくということになります。

 

 よく「信じる者は救われる。」と言うでしょう。

 しかし、私に言わせれば「信じる者は救われない。」

 信じるというのは、常に条件つきであり、ある条件を満たすのならば救われると言っているのです。逆に言うと、ある条件を満たさないのなら救わないよと言っているのです。これは馬鹿げています。そもそも、一体誰が救うのでしょうか。

 では「信じないこと」が良いのかというと、そうでもありません。

「信じないこと」は「信じること」の反対側にあるもので、要は同じです。

 

 では「疑う」とは何かと言うと、それは「好奇心」という「信じる・信じない」とは全く別物です。「知的好奇心」というよさそうな言葉がありますから、これで腑に落ちると思います。

 

ステップ3 検証と実践

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「うーむ、果たして本当だろうか? 自分で考えてみよう。」

 

「知る→疑う」までできたら、最後は「検証」になります。

※簡単に説明していますが、「知る」も「疑う」も時間と労力が必要です。

 本当の事らしきものを見つけられたら、自分の周りに起こっている現象と照らし合わせて、これで正解かどうかを吟味するのです。ここで「気づき」というのがたくさん発生してくるはずです。

 実のところ、社会で起こっている現象は、かなりの部分が繋がっています。「繋がりが大切」という綺麗事ではありません。「奇麗事」です。奇妙なぐらい繋がっているという意味です。そして実は、奇妙なぐらい繋がっているという事実を理解したら、それは奇妙ではなく必然的に繋がっているということが分かります。

 社会現象として見えてることは、ほとんど全てと言っても過言ではないくらい枝葉に過ぎません。木が例えやすいので活用させてもらいますが、枝や葉を見ているし、枝や葉しか見えていないということなのです。幹まで見えればかなり見えている。でもそれは、やっぱり見えているものをしっかりと見ているという段階です。

 本当の事とは「根」のことになります。根は見えません。「本当に大切な事は肉眼では見えない、心の眼(心眼)で見ることが大切だよ。」というようなことを書いてある書籍もたくさんありますが、それは本当だろうなというのが私の至った結論です。

 さらに追求していくと、根を支えているのは「大地」です。つまりは「土」。そしてその土壌を支えているのは「水」と「太陽」と「命」。そして、それらは全て「エネルギー」という具合に、どんどん深くなっていきます。

 

 話がそれてしまいました。元に戻します。

 検証は、あくまで自分の経験を信頼することです。世間からは評判が悪いことが多いので、他人の意見もあまり役に立ちません。そして自分の経験から導き出される結論というのは、疑いもなく自分のものですし、経験していないことは本当に分かったとは言えないので、自分にとって経験済みの本当に分かっていることを使って、本当の事を知るという作業になります。

 検証が終わったら、まあ、それで終わりで良いのですが、役立てるのならそれを使って実践してみるということも必要になります。

 私事の小さなことになりますが、「厄払い」には行きませんでした。

 行っていないので、行った場合と比較することはできませんが、特に厄にとりつかれているという感覚もないので、まあ、大丈夫なのでしょうね。まあ、もし厄にとりつかれたとしたら、その厄とは何なのかをじっくりと吟味し、厄と仲良くしようと思いますよ。

 

おわりに

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 目に見えていることは、すべて何か本質的なものの「波生」です。

「なぜか?」とか「どうして?」とか、哲学的に本質な部分に迫っていくと、数はどんどん少なくなっていきます。そしてそれはどんどん目には見えない部分になっていき、波生を作り出している根本にたどりつきます。

 世の中に「色」と呼ばれるものはものすごい数がありますが、元をたどれば三原色の3つです。それを混ぜ合わせることでたくさんの数ができている、つまりは派生色です。

 感情も同じです。中村天風さんは、消極的な心は20種類ぐらいだと言い、それ以外はその20種類ぐらいからの波生だと『心を磨く』で解説しています。

 今大人気の「鬼滅の刃」も素敵な事を言っています。「水の呼吸」とか「音の呼吸」とか、柱が使える呼吸は全て「日の呼吸」の派生だという説明です。

 本当の事、真実、真理、根本など、原理原則を知ることで、世の中の見え方がぐんと変わります。それは「くだらいもの」をくだらないと感じ、「よいもの」をよいと感じることに繋がります。違和感はなくなり、感じていることと思っていることが一致するということが起こります。

 世間からは評判が悪いですが、自分自身は調和しているのでエネルギー量が上がり、健康にも良いです。あとは「世間からは評判が悪いけど、まあ、いっか。」という「人の目が気にならない状態」を目指せば大丈夫です。

 うん? 大丈夫かな?

 それはそれで大変そうだけど、今回のテーマではないのでまたの機会に委ねることにします。毎度の事ですが、最後まで長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。少しでもこの記事が役に立てたのなら嬉しいです。