Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

未知なるものに恐れはない

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「未知なるもの」と言う時、なにか得体の知れないグロテスクなイメージをもつかもしれません。そのイメージが理由で「未知なるもの」=「恐れ」ということになりますが、今回の記事は「未知なるものには恐れはない」という正しい理解のお裾分けです。なにかを「こわいよー」と感じてしまう人に役立つと思います。「未知なるものは、恐れではなく好奇心をかき立てるもの」ですから。

 

未知なるものの代表

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 ずばり幽霊でしょう。お化けとか。

 これは怖いですね~。一般的には怖いです。

 でも、よく考えたら、なんで怖いのかな?と思うわけです。

 呪われるから?

 だったら、呪われたらなんで怖いのか。

 おかしくなっちゃうから?

 おかしくなっちゃったらなっちゃったで本人は気づけないから大丈夫です。

 死んじゃうかもしれないじゃん!

 ・・・そうですね。そこに行き着くと思います。

 

 得たいの知れない病気も恐いですね。

 一般的には恐すぎます。

 コロナもそれで大騒ぎしています。

 でも、なんで怖いのかというと、死んじゃうかも!と行き着きます。

 

 通り魔や変質者も恐ろしい!

 何をしでかすか分かりませんから未知です。

 自分に危害を加える存在は暴力的でもありますから恐いし恐ろしいですね。

 でも、危害を加えるとどうしてこわいのかと言うと、最終的には死に至る可能性があるからです。

 

 つまり、怖いという恐れは、たいていの場合は死に行き着くのです。

 だから死が恐いということであって、その死が未知であるということです。

 全ての人に平等に訪れ、そして誕生と共に確約されている死です。

 全ての生命が宿命としてもっている死が恐いのです。

 

 ところがね、死と未知がくっついているから「死は未知だ」→「だから未知が恐い」と思いがちなんですが、よくよく考えてみると、死の恐さと未知の恐さは別物なんです。死が恐いのは、死を知らないから恐いのではないのです。死が恐いのは既知のものの喪失、損失、ロストが恐いのです。つまりは「生の喪失」への恐れなのです。

 すると、未知が恐いのではなく、既知が恐さを生み出しているということが分かると思います。未知は恐くないのです。

 

 未知とは知らないということですね。

 知らないのだから恐いも存在しないのです。

 恐いと感じる為には、それが何であるか知っている必要があるのです。

 

「知らぬが仏」という言葉は、よく本質を言い当てていると思いますよ。

 

未知なる死が恐くない人

 さて、死が最大の恐れだとして、その恐れに対して「死ぬのが恐くない」という人が稀にいます。しかしそこには2つの種類があります。

 

 1つ目は簡単に説明できます。それは人生というものに絶望している人。

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 先ほど、未知なるものは恐くないということで、既知のもののロストが恐いと理解したでしょうから、「既知なるものの喪失が恐くないのなら死もまた恐くない」という理論が成り立ちます。だって、ロストするものの価値が自分の中で低ければ失っても恐くはないでしょうから。

 

 2つ目は説明が長くなります。未知なるものを既知なるものにする場合です。

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 既知のものが恐さを生み出しているという説明をしましたが、それはロストする場合であって、もっと深く知ることで恐くなくなるという内容になります。

 しかし、最初に断っておきたいのは、死に関しては知ることは不可能です。だって、死んだことがない人が生きているのですから。だから考えても無駄です。経験のしようがないのです。唯一、臨死体験がある時にだけ可能ですが、一般的には起こりにくい。

 ただ、たいていの場合は、知ってしまえばたいしたことはなくなります。大昔から、「知ってしまえば大丈夫だった!」ということが繰り返されています。

 例えば皆既日食。今でこそ「おおーっ、すごいねー。」なんて呑気なことを言っていますが、それが知られていなかった頃は、「神様が怒っていらっしゃる!」みたいなこともあったそうですよ。「魔女狩り」とか「生け贄」なんて言うのも、私は見たことがありませんが、普通にあったようです。

 

 お化けが分かりやすいので、お化けで説明します。

 お化けとは幽霊ですね。幽霊は、もともとは人です。ある人が怨念をもち、その恨みみたいなのが解決しないままで彷徨っているというイメージでいいでしょうか。

 するとね、人なんだからということになりませんか。

 よく分からないけど、自分には全く関係ないけど取り憑いてくる人です。

 まあ、幽霊だって取り付く人を選んでいるでしょうから、理由がありそうですが、それでも人です。まとわりついてくる人だと思えば、たいして恐くはないでしょう。

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「・・・君ねぇ~、私にまとわりついているけど、何がしたいの?

 うん? 恨みがある? それは私にじゃないでしょう。

 恨みを持っている人のところに行きなさいよ。

 うん? 場所が分からない?

 だいたい、君はいつの時代からそうやって彷徨っているの?

 そもそもだね、君はそうやって彷徨っているのが楽しいってことでいいのかな? もし楽しくはないけどやっているのなら、自分の本当の気持ちとずれてるんだよ。

 うん? わかっちゃいるけどやめられないって?

 だから、聞いてた? 楽しいんなら続けてもかまわないけど、君がもしもだよ、私のことをのろい殺したとしたら超都合が悪いって事に気がついているかい?

 だって、取り付く人がいなくなるだろう。それからだ、次が最大の問題点だけども、私だって君と同じ土俵にいくのだよ。

 君はね、今は優位な立場で私を怖がらせていると思っているかもしれないけれどもだ、私が同じ土俵に行けば、その優位性はなくなるんだよ。私もまた、幽霊である君にだ、幽霊として取りついてやるぞ。

 もう全面戦争だよ。それでもいいのかい?」

 とまあ、楽しく考えてしまえばいいのです。

 まあ、楽しく考える人には取り憑きませんが・・・。

 

 話が脱線してしまいましたので、真面目に本題に戻ります。

死を知るための生

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 知ってしまえば恐くなくなるけど、死は知ることができないという事実。

 そこで、逆の場所にあるものを活用するのです。

「死」の反対である「生」

 生きるということを深く深く知ること。そして経験し、また深く知ること。生きているという状態に気づくこと。それは息をしているとか、おいしく食べれているとか、病気ではないということではありません。生き生きと「生」を感じているということです。「生と死」はワンセットです。コインの表裏関係にあります。ですから、生を知るということは自然と死を知るということに繋がっています。

 この辺はややこしい説明になりますので、詳しくは説明しませんが、要は、毎日を心から本当に充実して過ごすことができれば、知ることが不可能である死が、ほんの少し理解できるようになり、以前よりは恐くなくなるということに繋がります。

 たとえば、「もう、思い残すことはない。」という人がいます。死を恐れていないのが分かると思います。思い残すことはないというのは、もう精一杯毎日を過ごしたということで、生を経験し続けた人です。

 

 未知なるものに恐れは存在できず、既知が恐れを生み出していること。

 しかしまた、恐れを生み出している既知をさらに深めて知ること。

 そうすることで恐れはなくなっていきます。・・・・理論上は。

 

 ただ、今回の記事は「未知なものは知らないのだから、そこに恐さがあるのではない」という理解が何かの役に立つかな?という内容でした。

 軽い気持ちで書いたのですが、「死」という言葉が登場すると、重い感じになってしまいますね。軽い気持ちで書いているので、軽い気持ちで受け止めてくれると嬉しいです。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。