Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

コロナ禍がもたらしたこと

 新型コロナウイルス、これは一体、何をもたらしたのだろうか。

「コロナ禍の影響で・・・」に続く言葉はたくさんある。

 概ね負の側面に焦点を当てて「コロナのせいで・・・」と非難の的である。

 コロナ禍が本当にもたらしたものは何なのか・・・。

 もう気づいている人もいるかもしれないが、あえて書いて発信することで、世の中の正しい見方の一端を担いたいと願う。

 

コロナ禍がもたらしたこと

 マスクの普及ではない。

 マスクは普及はしたが、それは小さなこと。マスクの普及によって化粧品が売れなくなったことを考えれば大きな事かもしれないが、それでも小さい。

 ステイホームも問題ではない。

 旅行や移動など、密を避けるためにかなりの制限を受け、自宅でおとなしく過ごすことが推奨されたが、家でのんびり過ごせるのなら問題はないはずである。

 外食産業が大打撃も経済にとっては大きな問題と言えるかもしれないが、私の解釈ではそこでもない。それは波生物の1つに過ぎない。

 同じように、結婚率の低下、少子化問題、観光地の衰退、不登校の増加、リモートワークの推奨、コロナワクチン接種問題などなど、あげればきりがないが、それらの大元、コロナ禍がもたらした、最も大きなこと。大きな視点。それは・・・。

 

「コロナ禍によってあらゆることが加速した」ということだろうと考える。

 

 ここ数年で何が起こったのか。

 それまでも加速気味ではあったが、一気に加速したと私は見ている。

 AI技術、無人化、同調圧力、画一化、ネット環境・・・。

 

 そして、実はこれまでも問題だったが、問題として理解していなかったことが「浮上」してきたという事実。口実を見つけ、見ないようにしていた本当の問題の姿が見えはじめているのである。

 しかし、本当の問題を見ないように生活していた人々にとって、コロナ禍によって本当の問題が見えそうだからといって、その問題を見ることは恐ろしい。恐ろしいから見ないようにしてきたのだから当然である。

 

 コロナ禍がもたらしたこと。

1つ目は、あらゆることの加速現象。

2つ目は、本当の問題点の浮上。

 

本当の問題とは何か

 では、コロナ禍により明確になっている本当の問題とは何なのか。

 姿を見せ始めているにもかかわらず、未だに「コロナ禍のせいで・・・」と口実を見つけ、多くの人たちが見たがっていない問題とは何なのか。

 それは、端的に一言で言うならば「人として何が大切なのかを理解していない」という問題である。また「何が本物で何が偽物なのかを判断できていない」ということでもある。

 具体的にいくつか例を挙げてみる。どこを入り口に考えてもかまわない。結局は同じ結論に至るはずだから・・・。

「人として何が大切なのかを理解していない」を少しでも解消できるならと、あえて不愉快に思う人もいることを承知で・・・。

 

 例えば「仕事」

 仕事の業種は様々だから一言では説明できないが、大きなくくりでならなんとか簡単に説明できそう。それは「必要な仕事と必要のない仕事が明確になった」ということによる「無駄の排除」。・・・と見えるが、本当はその奥。

「無駄だと思って排除してみたら必要だった」という理解が必要。

 無人化による経費削減、リモートワークによる効率化、AIによる自動化、仕事がらみの宴会不要論、ネット環境の加速によるバーチャルコミュニケーションなどなど、一見すれば良さそうに見えるそれらのことは、実はこれまで大切にされてきたことを一気に喪失させている。便利で良さそうだということで採用されるが、人として大切な事を喪失させている。

 人ならば人が必要である。人は人によって成長し、人によって感情豊かになり、人によって愛を知るのである。

 

「人として何が大切なのか」。その1つ目は「人」である。

「繋がっているじゃないか!ネットで・・・」と反論があるかもしれないが、その反論に反論しよう。人ならばリアルな触れ合いが大切なのであると。

 仕事ではないが、コロナ禍に大学に進学した人たち。希望に胸をときめかせて入学したのに、授業が開設されずに時間ばかりが過ぎ、本当に気の毒だと思う。しかし、人には人が必要であり、触れ合うことが自分にとって大切な事だと気づけたのなら、大きな「学び」と言えるだろう。

 

「人として何が大切なのか」。その2つ目は「無駄」である。

 無駄だと思えるようなことでも、実は無駄ではないということがたくさんある。そして人には「ゆとり」というものが必要なのである。リモート会議は経費削減にとっては大いなる無駄だと思われることに貢献しているが、会議のために出張などの機会そのものをロスト。会議のためであっても、移動するというのは風情のあることである。

 

 例えば「家庭」

 これも千差万別なのだから、一言では説明できないが、おおざっぱになら説明できそう。それは「学校じゃなかった」という理解。保育園でもない。

 不登校の原因、子ども達のやる気がなくなった理由、ゲームやユーチューブ漬けの状態も、ステイホームの期間に増えたのなら、学校に行けなかったからではない。学校は少なくとも抑止力として働いていたのである。その抑止力がなくなったとき、家庭そのものの姿が子ども達に色濃く反映されているだけ。家庭教育力が失墜していたという問題に直面せざるを得ない。

 さらにその奥。子育てを他人に任せていたという事実の浮き彫り。

 子育てとは「国家の一大事業である」と何かの本で読んだことがある。それぐらい大変で重要であるということなのに、これまで人任せにし過ぎていたと理解する必要性がコロナ禍によってもたらされているのである。

「人として何が大切なのか」。3つ目は「子育ては手間が必要」である。

 子どもが小さければ小さいほど、人による愛情が必要である。

 愛情というのは、手間をかけ、時間をかけ、じっくりと熟成されていくようなものであるにもかかわらず、効率や便利さに目がくらみ、本当に大切なコミュニケーションをないがしろにしてしまっている。そこが本当の問題。

 家での時間が増えたせいで、夫婦仲が不穏になるケースがあると聞く。

 コロナ禍はきっかけ。家で過ごす時間を生み出しただけ。夫婦でいる時間が増えて不穏になるのなら、これまでは一緒にいないことで不穏を避けていられたということ。つまり、その夫婦仲はすでに破綻していたというのが本当の問題。だから、本来ならばその夫婦仲の問題点に向き合うことが必要なのである。これは家族でも同じこと。

「人として何が大切なのか」。4つ目は「機能不全に気づくこと」である。

 

 例えば「コロナワクチン」

 通常では考えられない速度で認可され、多くの人たちが打ちまくったワクチン。それは効果があったのかなかったのか、さっぱり分からない。だから「コロナワクチンは効果がないどころか副作用がひどいのではないか・・・」という気づきのように思えるかもしれないが、本当の問題はその奥。

「テレビで専門家が言っているから間違いない」とか「みんなが打っているから」と安直に判断してしまったという理解。

 コロナワクチンが出回った頃、報道番組でキャスターが「これでワクチンは防げますね。」と聞いたところ、ある専門家は「防げませんよ。ウイルスには感染します。」と言った。その専門家をその後、テレビで見かけることはなかった。

 ワクチンが効果があるかどうかについては、ここでは言及を避けることにするが、打つべきか打たないべきか、その両方の意見があったはずなのである。しかし多くの人は「打つ」という選択をしたという事実。果たして本当に自分で考えたのだろうか。

「人として何が大切なのか」。5つ目は「自分の頭で考えること」である。

 あるいは「自分で判断すること」でもいいだろう。

 テレビで言っていることが全て正しいとは限らない、もっと言うのなら、報道は様々な事情から全てを言うわけにはいかないのである。だからこそ、情報の1つとして捉え、多面的に判断していくことが大切なのだが、すぐに信じてしまう。そのすぐに信じてしまうことが問題なのである。自分で考えるのは大変な努力を有するから、安直に権威的な人の意見を鵜呑みにしてしまう。そこが問題。

 そして、みんなが打っているから安全なんだろうとか、周りの目が気になるからとかの同調圧力に屈する自分。歩調を合わせて無難に生きていこうとする姿勢。「和を大切にすること」はもちろん大切な事ではあるが、同調圧力に屈することが「和を大切にする」ということにはならない。似て非なることである。

 人は誰でも自分の見たいことしか見えず、自分が見たいように解釈するものである。だから両方の意見があった場合、自分にとって都合の良さそうな方に口実を見つけて採用してしまう。だからこそ、

「人として何が大切なのか」。6つ目は「疑うこと」である。

 世の中の画一化は、この疑うことを一斉に排除している。これをやっていれば大丈夫だと、誰かが言ったとしても、それが覆ることはよくある。本当にあきれるほどにすぐに覆る。その事実を俯瞰することができれば、応用できるのである。

 

 まだまだ「人として何が大切なのか」を挙げればあるが、自分で考えてたどり着くことも推奨したい。自分で見つけたことだけが自分のものである。それ以外は全て借り物。知識の借り物であり、役に立たない。得た知識を自分の経験に照らし合わせて納得するのなら自分のものになり得るが、ただそうなのだと、ただ信じるだけなら簡単ではあるが、簡単に手に入れたことは簡単に忘れる。忘れるから使い物にならない。

 

活路は「気づくこと」

 ああ、そうなのか。

 ・・・そういうことだったのか。

 仕事じゃなかった。学校じゃなかった。コロナじゃなかった。

 ・・・じゃなかったんだ。・・・でもない。・・・は関係なかった。

 すべて自分の物語だった・・・と、絶望と共に気づくこと。

 そこに活路がある。

「絶望と共に・・・。」を読み落とさないこと。

 気づく事は難しい。気づかない方が幸せだからである。

 今まで信じていたことが覆る瞬間、絶望的になる。

 絶望は嫌だから、恐いから、人は本当の問題に向き合わない方法を見つけるのである。それが口実。 

 誰かのせいに、何かのせいにして問題をはぐらかすことはできる。

 それは一時しのぎ。

 本当の問題に向き合わない限り、派生する問題に翻弄され続ける。

 コロナ禍によって、様々な問題が浮き彫りになった今だからこそ、自分の物語として本当の問題を見つめることができる環境になったのである。それはやがて、人にとって大切な事は何なのかという本質的な場所へたどり着くことができるだろう。

 その場所は、自分の中にしかない。

 怖がらず、恐れず、自分の中に深く深く潜って、本当の問題に向きあう人を、私は心から応援する。その人は、美しい。