Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

謎の一般論 ~誰が授業しても大丈夫な学級~

「本当に良いクラスとは、誰が授業をしても子ども達が理路整然として授業がやりやすいクラスである」とか「担任がいなくてもきちんとできるクラスが良いクラスである」とか「学年が変わったときに前担任の真価が問われる」と、教師であるなら一度は聞いたことのある台詞でしょう。

 これを破壊します。破壊されたくない人はここで読むのをやめてください。

 

1 この一般論らしきものが熱心な人を苦しめる

 最近のことです。現在一緒に学年を運営している通常級の担任教師とある会話になりました。それは、担任が授業しているときは全く問題がないのに、専科や補欠の先生が授業をすると、担任がやったときのようには落ち着いていないということに対する私の解釈です。

 私の解釈を伝えると、通常級の担任教師は「なんかすっきりしました。救われた気持ちです。今までこのことで悩んでたので・・・。」と感想を言っていました。私としては何気ない話だったんですが、彼にとってはいい話だったのだから、きっと同じように悩んでいる人にとっては必要なのかもしれないと思って、今回の記事を書くことにしました。

 

 では、何を伝えたのか簡単に説明します。

①担任教師として、君は大変優秀であり、子ども達はみんな成長している。

②担任がいない時に、若干乱れるのなら、それは授業をした先生と子ども達との関係に他ならない。

③私が見る限り、君の授業は上手で、子ども達が乱れているときは他の先生の授業がうまくいっていないときである。

④つまり、反省すべきは子ども達ではなく、授業そのものに何か不備・不足があるという一点のみである。

⑤まあ、責任があるとすれば、君の授業が上手で面白くて学びがあるという点だろう。だとすれば、どこに問題があるのだろうか。

⑥だいたいにおいて、子どもというのは残酷なまでに正直である。だからつまらないときにはつまらないという反応をするのが自然であり、つまらないものを、さぞ真剣に装うことができるのは大人ができる芸当である。

⑦話を聞いていないのなら、話を聞かせられないという話し手の問題であり、それを「聞きなさい」と促すのは、将来的に話し方に不備があるという本当の問題を指摘せず、子どもに我慢することを教えるということである。それがしたいのなら良いだろうが、君はそれがしたいのだろうか。

⑧子ども同士が友だちを作る時、それは本人が作るのであって、他人が友だちを作ってあげることはできない。それと今回の一件は本質的に同じである。授業者と子ども達の関係を、第三者がつくるのはおかしいことである。

⑨私が見る限り、子ども達は相当我慢している。文句も言わず、ただ話を聞かなかったり、少しざわついている程度なのだから、それほど我慢強い子を育てたという点をもっと強調してもよいくらいだ。

⑩ということで、君は自分を責めてはいけない。「担任がいなくても授業が理路整然とする学級が良い学級」というのは馬鹿げている。それはできない先生の逃げの口実として存在しているだけであって、なぜ統率できない先生のお手伝いを、熱心にし続けた君が面倒をみなくてはならないのか、理解に苦しむ。

 おおざっぱに以上の内容でした。

 

 だいたいね、熱心に努力をし続ければ、教師として1つも2つも抜き出るのです。すると子ども達は先生がどんどん大好きになります。だから、結果としてギャップが生じるのです。それは仕方のないこと。

 もっと辛辣に言わせてもらえば、「授業の形をみんな同じにしましょう、それが学校スタンダードです」という一見美しいスローガンは、ただただ脚を引っ張っているだけです。考えなくてもマニュアル通りにやればOKであり、抜き出た教師の否定、努力しまくった結果の否定です。

 実は、私もかつて言われたことがあります。

「先生が受け持っているときはいいけれども、次の学年を持つ人が大変。先生のやり方が普通じゃないからイケナイのだよ。もっと足並みをそろえてくれなくちゃ、やりにくくてしょうがないわ。」と。

 この言葉通りではありませんが、まあ、内容はこんな感じです。

 学級運営の仕方が、私は「解放型」であり、多くの場合は「締め型」です。授業がやりやすいのは「締め型」です。一般的にもまずは「締め型」が基本です。「解放型」は「締め型」の応用であり、部分的に使えるようになるだけでもかなりの努力を有します。ですから、「解放型」で学んだ子にとっては、「締め型」は窮屈なのです。それで反発が起こります。その反発の原因は・・・私の「解放型」でしょうね。

 私は「出る杭は打たれるが、出過ぎたら誰も打てない」ということを心の支えにして、それでもひたすら進むを選んだので、やがて全く気にならなくなりましたが、そこの至るための道については経験として知っています。

 

 教師の勉強を熱心にやり、本当に子ども達のためにやればやるほど、一般的に信じられている「良さ」からは離れていきます。

 

 じゃあ、本当に熱心に教師の道を志した人が浮かばれないじゃないですか。だから私は彼のために少し怒り口調で、馬鹿げた一般論を破壊したのです。

 

 それで彼はすっきりしたんですね。

 多くの人たちからは嫌われそうですが、私は目の前の熱心な人にしか興味がないので、熱心さが救われたのなら、まっ、いっか。彼以外、誰も聞いてないしね。

 ・・・うん? この記事は、やばそう。

 だけど、まっ、いっか。熱心な人を応援したいからね。

 

2 ついでに学年が変わったときに見られる謎な意見

 この状態が、学年が変わったときに

 こうなったら

 こうなるでしょう。

 この場合は、前担任の責任です。

 

 前に書いたことと矛盾するようですが、矛盾していません。

 実はこれ、よくあります。

 どこで起こるかというと、最初の状態が3・4年生で、次の状態が5・6年生だと起こりやすい。3・4年生で締めすぎると、5・6年生で溜まっていた不満が噴出することで起こります。つまり中学年での「超締め型」が問題の根です。

 

 そして、このとき、謎に満ちあふれた事を言う人がいるので、私は怒りすら覚えます。それは、そもそもの原因を作った「超締め型」の先生が「自分が担任だったときは子ども達はきちんとしていた。」という意見です。この意見が出たときは、前担任の責任です。それ以外は現担任の力量の結果と考えていいでしょう。

 いいですか。3・4年生は力でねじ伏せて言うことを聞かせられる最終学年なんです。しかし、3・4年生は全学年の中で最もエネルギッシュでなんでもやってみたい時期でもあるのです。そのエネルギーを力でねじ伏せるのですから、その不満は積もり積もって爆発します。これが高学年における「荒れ」の一端を多いに担っています。

 もちろん、高学年を担任した先生の実力という場合もあるでしょうけれども、私の経験を言わせてもらえば、中学年でよい子に見える学年は、高学年になるとかなりの確率で手に負いにくい状態になります。

 私は「超締め型」を敢行した先生が「自分の時は大丈夫だった。」と自慢するかのように言う理由を私は完璧に理解しています。自慢しているだけです。自慢しているので、心配などしておらず、言いたいことは「自分はできる先生である」ということだけです。私に言わせれば「君が担任したときに締めまくって大丈夫だったから、今こうなっているのだよ。」ということ。

 そして、タチの悪いことに、そういう自慢をする先生に限って、子どもの手柄は自分の手柄であり、子ども達の失敗は子どもの責任にしがちなのです。

 

 私がまだ初任の頃、サッカー少年団のお手伝いをしていたんですが、その時の先輩教師からこんな教えを受けました。

 

「子どもが試合に勝ったら子ども達の手柄だぞ。何も言うことはない。でも負けたときは監督の責任だ。子どもを励ましたり学びを深めたりさせるのが仕事だから、監督業というのは浮かばれない仕事だ。だけど、その分、人として自分も成長できるのだから、ありがたいと思うようにすることだよ。」と。

 私は、なんと素敵で格好いい姿勢なのだろうと感銘を受けたものです。

 

3 謎な意見に対して私ができること

 私は子ども達が悪いとか、前の先生が悪いとか、そいういうことは実はどうでもいいのです。そうではなくて、ただそういう状態なら、原因をはっきりさせ、ロストしていることをやり直すしかないという考えなだけです。

 だからね、邪魔をしないでほしいのです。謎な意見、自己保身のための謎の自慢話など、何の役にも立たない。ただ自身のやってきたことを内省してくれればいいのですが、自慢しているのだから、そこに気づく事は困難を極めます。だから内省も別にしなくてもかまいません。そうなった理由もあるでしょうから。

 だからね、せめて邪魔をしないでほしい。

 私ができること、教師としてベテランの場所にきたからこそできるわずかなことは、邪魔を抑止することと、本当の事を伝える事、そして頑張っている人を応援する事ぐらいです。

 教育界、随分長く居ますが、謎の一般論がまだまだあります。

 また機会があれば書くかもしれませんが、教師でありながら教師批判、教育批判をしまくるというのは、あまり美しくはないので、もう書かないかもしれません。

 

 最後までお付き合いいただき、ありがとうざいました。