Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

価値があるかどうかは受取手次第

 それは価値が「ある」のか「ない」のかが分かるため記事です。物や情報が溢れる現代社会において、取捨選択がつきまとうからこそ、価値あるものを大切にしたいでしょう。時間は有限で、できることは無限ですから、価値をどう捉えるかということは、人生そのもの、生き方の問題に直結する1つの側面です。

 具体的な物は無数にありますから、基本的な考え方を5つお伝えします。自分自身にアレンジして使うようにしてくださいね。内容は以下の通りです。

1 価値が「ある」か「ない」かの大前提は受取手が決める。

2 価値が「ある」か「ない」かはTPO次第。

3 価値は流動的であることについて

4 価値は年齢や性別で違うことについて

5 本当に価値あることについて

 

1 価値が「ある」か「ない」かの大前提は受取手次第

「猫に小判」「豚に真珠」という諺があります。

 これが全てです。

 価値がわかるかどうかということではありません。意味があるかないかということです。使い方が分からないのなら、あっても仕方のない物です。猫も豚も興味があるのは「餌」であり、自由に動き回れる自然です。

 これを人で考えると、自分にとって意味があるかどうかが最大のポイントであり、意味があるというのは「使う」のか「使わない」のかということになるでしょう。あるいは「必要」か「必要ない」か。

 

 こんな話を聞いたことがあります。

 ある教師が、研究団体に所属していました。ある日、その教育研究団体主催の公開授業をするということで、その教師に授業をしないかという打診があったそうです。しかし、その教師は教育団体には所属していますが、それほど公開授業に価値を感じていないし、自分の学級業務上、それどころではなかったため、断ったそうです。

 その数日後、その教育団体で名のある教師から、再度、依頼の電話があったそうですが、それも断ったそうです。すると、最初に依頼してきた教師からお怒りの電話があったそうです。「○○先生のような人から依頼されるというのは、光栄なことなのに、それも断るなんてけしからん!」というような内容だったそうです。

 馬鹿げています。光栄かどうかも馬鹿げています。最初に依頼してきた教師にとっては価値あることなのかもしれませんが、そのような世界に興味がないのなら、光栄かどうかなんて感じようがないはずです。

 ある人にとって価値あることが、全員にとって価値あることであることは稀です。稀も言い過ぎです。ほとんど皆無に等しいです。「価値が分かるかどうか」ということが大切にされがちですが、「価値が分かる」ということにも価値はありません。猫にお金の価値が分かっていたとしても、使えないのならやっぱり価値はないからです。

 ですから、どうしても受取手次第で価値は決まるのです。

「これ、価値あるよー。」と言われたとしても、それが自分にとっての価値なのか、他者にとっての価値なのかだけが、価値を決めています。

 

「なんでも鑑定団」という番組があります。骨董品などを持ち込んで、専門家達が吟味し、これはいくら、あれはいくらと、お金に換算して価値を伝えて、一喜一憂するという番組です。

 この場合、その骨董品がめちゃめちゃほしい人なら、これぐらいはお金を支払うはずですよという提示です。すると、2つのことが言えます。

 1つ目は、その骨董品は、売ることを考えている時点で、骨董品に価値があるのではなくて、お金に価値があるということ。

 2つ目は、その骨董品は、少なくとも私はほしくないので、お金をもらってもイラナイ。ですから、ほしいと感じる受取手が価値を決めているということ。

 

2 価値があるかどうかは「TPO」

 時間のT 場所のP 場面のO で「TPO」です。

 例えば洋服。めちゃくちゃおしゃれな服は、めちゃめちゃおしゃれなTPOが必要で、それがないのなら使いません。スーツを着ることがない人にとってのネクタイは「無用の長物」となります。使う可能性があるのなら価値がありますが、その可能性がないのなら、ただのゴミです。早く売って、使い物になる「お金」に変えた方がよいでしょう。

 もう少し納得するために、いくつか例示します。

 この人にとって価値ある物は、きっとひげそりなのでしょう。けれども、伸ばしまくっているので、実はひげそりは価値があるどころか、ヒゲをなくさせようとする脅威になるでしょう。

 釣りをしていますね。釣り人です。ですから釣り竿はとても価値ある物です。

 昔、釣り好きの友だちから、

「おまえが釣りをするのなら、この高級リールと釣り竿を友情の証としてプレゼンとしてもいいぞ。」

と、ありがたい申し出を受けたのですが、丁重にお断りしました。私は釣りをしませんから。たとえ高級だからといって、もらえば保管するしかなく、ただただ邪魔です。だからといって、お金に交換すれば「友情の証」を売り飛ばしたという傷が残ります。もらわないのが一番です。

 その友だちの新築祝いに「鹿の頭のはく製をプレゼントさせてくれ!」と提案したんですが、「絶対にいらない!」と断られました。けっこうなお値段するんですけどね。

 

 価値がありそうですね~。

 何が入っているのかな?

 空けてみたら

これが入っていた! ・・・どうですかね? 人によるかな・・・。

3 価値は流動的である

 寂しい画像提示で申し訳ないのですが、こういうことです。

 ある時期に価値のあったものが、永遠に価値があるということはない。その時は必要で、その時は価値があったけれども、その時が過ぎれば必要なくなる。必要なくなるまでは価値があるということです。物に関しては、そういうことが多いです。

 だからこそ、もう必要のなくなった物に関して言えば、多いに感謝して「さようなら」をすることです。

 「今まで自分を支えてくれてありがとう。でも、もうダイジョウブダヨ。サヨウナラ・・・。」と。

 まだ私が学生だった頃、パソコンが普及し始めていました。ワープロとパソコンが両方あった時代。私はワープロを購入していたのですが、友人はパソコンを購入し、当時20万円したノートパソコンを持って来ました。そして

「ワープロなんか買ったのか! これからはパソコンの時代だ。いいかおまえら、パソコンってのは凄いんだぞ! いーもの見せてやる!」

と言って、一緒にいた別の友人の電話回線を使ってインターネットに接続し、エロ画像を検索して見せてくれました。私と別の友人は「おおー、すごい!」とはなりましたが、その当時のネットは電話回線の使用料がかかるので、友人が電話代として支払っていました。

 その後、ワープロ、パソコンの双方でそれぞれが卒業論文を書き上げました。そして大学を卒業し、私は教職現場でしばらくワープロを使い続けたのですが、友人は教師にならなかったので、パソコンは一切使わず、結局ゴミになりました。

 友人にとっての20万円もしたノートパソコンは、何度かのエロ画像検索と卒業論文に使っただけなのです。20万円・・・それだけにしか使わないのなら高すぎませんか?

 

4 価値は年齢や性別によって変わる

 子どもって、大人からみたらくだらない物に興味を示します。つまり価値を感じると言うことです。だから大人から見たらどうしようもない「石」とか「昆虫の死骸」とか「訳の分からない枝」みたいなのを持ち帰ってきたりするし、「カエル」とか「カブトムシ」とかを見つけたら大はしゃぎで捕まえて「飼いたい!」なんてことを主張したりもします。

 大人にとって価値のないものが子どもにとって価値がある。

 それなら逆もまた成立します。

 大人にとって価値のあるものが、子どもにとって価値がないということが成り立ちます。子どもに立派なスーツをあげたところで、嬉しくないということ(大抵は)。

 何が言いたいのかと言いますと、子どもが興味を示したり、欲しがったりするものを「こんなくだらないもの?」と否定してはいけないということです。

 例えば、お母さんが素敵な洋服を買ったとしましょう。その時、子どもから「それ、似合うね。素敵だね。」と言われれば嬉しいでしょ? それを「お母さん、そんな服を買うなんて、僕には全く理解できないよ。それ、いくらしたの? えっ、2万円? もったいない! そんな物に2万円も出すのなら、僕の大好きなカード、何枚買えると思うのさっ!」と言われたらどうですか?

 子どもと大人、女性と男性、それ以外にも立場や育ちなどもありますが、価値は人それぞれだということです。

 

5 本当に価値あることって・・・

 物質的なことを言えば、そのほとんどが流動的です。価値があるかどうかは受取手次第です。だから「価値」というのは、それ自体で存在できない。人が介在しないと存在できないのです。

 ですから、まあ、自分で考えて価値を決めて良いということです。誰かが「価値あるよ-」と言ったとしても、自分にとってはどうなのかな?と立ち止まることが大切でしょう。

 しかし、そんなあやふやな「価値」ですが、本当に価値があるものもあります。時代が変わってもずっと大切で不易で不変。誰にとっても価値が在り続ける。

 たいていそれは、直接目にすることができないものです。見えないけれども、確かにそこに存在しているもの。

「命」「時間」「友愛」「絆」「想い」「願い」「夢」「健康」などなど。

 お金では買えないということも特徴かもしれません。

 そして人ならば、誰でも入手可能で、もともともっているようなもの。

 条件さえ整えば、必ず発動します。

 草がひとりでに生えるように、サナギから羽化するように、条件が整えば必ず発動します。真・善・美というもの、この「本当に価値あるもの」の一部です。

 

まとめ

 自分の人生をどのように生きていくのか。

 流動的な価値は、その都度、感謝しながら活用させてもらいましょう。今の自分にとって必要ならば価値があります。必要なくなったのならお別れしましょう。

 そして不変的な価値は、お別れしてはいけません。本当に価値あることは、価値があるので大切にしましょう。

 本当に価値のある「見えない物」を見ることはできませんが、感じることはできます。「ありがたい」という感謝の気持ちを忘れないことが大切です。

 本当は「有る」ことが「難い」こと。それが「ありがたい」です。

 有り難いことが有ってくれたことに感謝しますの言葉。

「ありがとう」

 毎日、一度は使うことで、あなたは本当の価値を知っている人ということになります。是非、実践を通じて価値を実感してほしいというお誘いです。

 最後まで読んでいただき、「ありがとう」ございました。