Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

初任時代の学び④-3 「たわむれ言いたい放題」

戯れ言いたい放題

学級通信一考 (後編)

 さて、本校の現状はいかがであろうか。数年前まではそれほど見かけることもなかったが、今は4~5クラスを除いた多くの学級通信が頻繁に机上に乗せられてくる。他校も同様なのかとつい考えてしまう。特に昨年度からは、家庭だけでなく職員室の机上にまで配布されるようになって、紙面だけの無言の交流が今もって続いている。

 どうしてそうなったのかは知る由もないが、当然の成り行きとして多くの学級担任の意欲をそそり、発行部数の増加へと帰結するに至っている。

 発行回数の多いクラスの通信には、その数字まで見えてくるから、これも熱意を現す1つのバロメーターと判断して、心安らかではいられない心理に揺れ動く担任もいるだろうと思ってしまうのである。若い先生にしてみれば特にそうであろう。

 1枚を仕上げるのに相当な時間を要するはずで、累計時間たるや膨大な数字となろう。家庭からの協力体制を意図する連絡通信が、果たして学級経営にそれほどの大きなウエイトを占めて発行していかなければならない物であろうか・・・?

 場合によっては通信した担任の思いが曲解されて、父母との面倒なトラブルに発展するという懸念さえあるから、チェック機能で支援する学校体制を必要とするものである。

 

 ところで学年打ち合わせで学級通信の発行について話題になることがあるのだろうか。学年内でも、発行する先生としない先生、そして発行回数の多い先生と少ない先生のバラつきがある実態を思えば、これは学級担任の自由裁量に任されて、取り決めをする何の議論にもなっていないと判断される。

 私はこのことについて苦言を呈する者ではなく、それで良いと思っている。前述の通りエスカレートして、保護者の錯覚に翻弄されることになってもである。

 学年間で規制し合うあまり、担任としての個性が失われるのは好ましいことではないからである。

 私は何とか児童に学力をと願うあまり宿題や家庭学習に力点を置くのが常である。学級通信への反発もないわけではないが、手書きの宿題を毎日のように連発していた。

 ところが、これには学年からクレームがついて、ほどほどにしようと言われたことがある。その処理が面倒だからであろうか。学級通信も宿題もどちらも学級経営の一端ではないか。一方だけが制約を受けなければならないはずもない。また、担任の交代で、我がクラスを受け継いでいた先生からも

「参観日で、前担任のように宿題を毎日出してほしいと言われて困っている」

と、半分私への苦情となって吐露されてきた。

 親の立場としては、学級通信よりも子どもの向上に結びつく宿題の方がずっと有り難いと思っているのは明らかである。

 

 もう14年も前のこと、我が子が6年生のときに学級通信を毎日のように持ち帰ってくる。どうしてこんなに毎日と、あまりにもびっくりしながら話をしているうちに、

「先生は自習しているときに書いていることもあったよ」

という思わぬ言葉が飛び出してきた。

 日曜参観日、教室に入って授業を覗いたことがある。掲示物の準備ひとつなく、学級の士気にも乏しい寒々とした授業風景であった。

 その当時、学級通信を毎日発行して年度末には分厚い冊子ができあがり、子ども達一人一人に手渡されたことが写真入りで大きく報道されていたことを覚えている。日常実践として何の変哲もない地道な活動には当然目を向けられることもなく、一風変わった活動を大々的に取り上げてくるマスコミの動きには疑念をはさまずにはいられない。

 すなわち、その報道を受け取る側とすれば、大方は功罪を知ることもなく、ただ好意的に是として受け止めてしまうからである。これでは追随してエスカレートしていく流れをだれ求めることはできないだろう。

 

 

私個人の見解

 当時、このような内容を私のために書いてくれたのです。

 物腰柔らかく、常に謙虚な先生でした。

 私は何度も話を聞きに伺ったのですが、常に褒められたと記憶しています。

 そんな素晴らしい先生の奥深い考えに触れることができたのは、受け継ぐためだと理解しています。

 私個人の所に留まっていた文章を、ブログというツールで発信できることを嬉しく思います。ちなみに、林先生には許可は取っていませんが、許してくださるでしょう。

 

 ここまで紹介しておいて今更なんですが、私は学級通信を発行する先生です。

 だけど、メッセージを理解した上での発行です。

 

 知らないでやるということと、知っているけどやるでは雲泥の差ですから、それでいいと思っています。