(2019.10.27の記事をリライト)
相手のことを心配することが愛情だと思っている人がたくさんいますが、心配された人はなんだか申し訳ないような気持ちになることもあります。また、「心配したくない」と言いながら、何かをずっと心配している人もいます。
よくよく考えてみると、この「心配」というのはどうもややこしそうです。
今回のリライト記事は、より分かりやすく大幅に見直したものです。
読み終えたら「心配しないようになった!」という自己変容はおそらく起こりませんが、「心配されるのはどうして嫌なんだろう?」と思っている人にとっては、その理由が分かるようになっています。
心配しないのが愛~教育現場からの事例で考える~
色々な問題を起こして、様々な悪さをした子は担任を通り越し、他の先生方のお世話も経て、やがて問題のけじめとして校長室にまで通されることを許されます。
A君は悪さばかりしていました。
悪さばかりしていたのには、やっぱり理由があるのですが、なかなか改善には至らず、校長室での面談にまでいきつきました。
事件の概要は今回のお話には関係ないので省略しますが、一段落(解決?)の様相を呈し、教頭先生からもメッセージを伝えました。
「A君、もうあんなことはしてはダメだし、してはいけないよ。先生達はみんなA君のことを心配してるからね。」と。
うん?・・・・とひっかかりました。
それで、話し合いが終わりそうな雰囲気だったのですが、私からも1つだけ伝えたいと割り込みました。
「さっき、教頭先生が、みんな心配していると言っていたけど、少なくても先生(私)は心配していないからね。先生は、応援している。全く心配はしていない。」と。
A君はうなづいていましたが、教頭先生は私の言っていることの意味がよく分からないようで、不思議そうな表情をしていました。
不思議な表情のまま校長室での話し合いは終了です。
後日、教頭先生が
「あの後、色々考えたら、先生の言っている意味が分かりました。心配してはいけないのですね。」と伝えに来ました。
「そうですか。分かってもらえて嬉しいです。心配をしても何も生まれませんからね。」と、わかり合えたような気がしました。
わかり合えた気がしたというのは、本当には分かっていないだろうなと考えるからです。実は、理論として分かったとしても、本当に実感して理解するのは難しいのが今回の「心配ちゃん」なのです。
結局、その後も教頭先生はあらゆることを心配し続けていましたから、やはり難しいのだなということを実感しています。
心配が持つ裏メッセージ
一般的には、心配は愛の行為とされています。
あなたのことを私は心配していますよというメッセージは、良いこととして普通に使われています。しかし、よくよく考えてみると、心配には色々と負の側面があることに気づかされます。全ての行為には表のメッセージと裏のメッセージがあるのです。その裏メッセージの正体については、この章の最後に分かります。
裏メッセージ①「あなたは心配される存在なのよ」
「あなたのことを心配していますよ」という表のメッセージは
「あなたは心配される存在なんですよ」という裏のメッセージが付随しています。
まずはここを理解しなければなりません。
その裏メッセージをどう受け取るかはその人によって異なるでしょうけれども、表メッセージだけを伝えられるということは、特別の場合を除いてほぼありません。
そして問題を起こしている子の場合は、自己肯定感は低い状態ですから当然裏メッセージもばっちり受け取ります。意識はしていなくても無意識に受け取ります。
「僕は心配される存在なんだね」という裏メッセージ。
これは、自己否定感へ直結しています。
裏メッセージ②「あなたが心配をかけないのなら私は愛を与えます」
次に「心配」という行為そのものが条件付きだということを理解してください。
「愛しているから心配している」という理論を正当化したいでしょうけれども、もう少し私の説明にお付き合いください。
「本当の愛」というのは条件がありません。無条件の愛で、慈愛で、絶対愛です。
仏陀もキリストもマザーテレサもガンジーも、みんな同じ事を言っているということが、多くの書籍から読み取れます。ですから「心配」というのは、条件がついた段階で「本当の愛」ではないということになります。
「心配」は「心配をしている人」が持つ「不安」という感情から生まれています。
「なぜ心配なんですか?」と私が聞けば
「不安だから心配するんです」という答えるでしょう。
全く否定しません。その通りだと思います。ねっ、不安から生まれてるでしょ?
では、架空の人物を想定しながら、質問を続けてみます。
「不安だから心配するということは分かりました。安心したいのですね?」
「もちろんそうです。」
「どうすれば安心するんですか?」
「それはもちろん、うちの子が人に迷惑をかけないで、きちんと学校に行ってくれて、お勉強もしっかりできて、友達想いな子に育って、みんなから好かれて…」
「なるほど、よく分かりました。ではその条件が全てそろったら安心するのですね?」
「……そう思います。」
「だとすれば、その心配には条件がついていると理解できますか?」
「な、なにを! 私は子どもの事を考えて言っているんです!」
「もちろんそうでしょうね。それは否定していません。ただ、安心するためには条件がついているということを言っているだけです。」
ある条件を満たして心配をかけないのなら私は安心できるのだと、相手に裏メッセージとして伝えているのです。それは心配という美名をまとった条件付きの愛情です。そしてどうしようもなく、ただ心配する人が安心したいだけなのです。
裏メッセージ③「あなたは私よりも下にいるのよ」
「心配」という行為は上下関係を生みます。意識しようがしまいが関係ありません。もちろん「心配する者」が上で「心配される者」が下です。心配する・されるという行為は、それだけで上下関係が発生すると、ここも可能なら理解してください。
場合によっては「自分は人の心配をするだけの偉い存在であり、君は心配されるほど未熟な存在なのだよ」というメッセージにもなりかねません。というか、そういう裏メッセージも伝わってしまいます。
しかし、生まれてくるのが少し早かったっというだけで、年上だから偉いということはありません。そもそも偉いとか偉くないとかなんてありませんから。
裏メッセージの正体は…
不安だから心配するでよいでしょう。そう言っているのですから。
つまり、不安なのは心配している本人。
つまり、自分が安心したいから心配してしまう。
つまり、自分が心配したいから心配してる。
裏メッセージの正体は、心配する人が持つ不安感を和らげるものです。
つまり自分が信じてきたことです。自分がそうすれば相手が安心したこと。
勉強をがんばったら、安心してもらえた。
お行儀よくしたら、たくさん褒められた。
何かをしたら、心配をかけなかったら、みんなが求めることをやっていたら
ワタシハ アイ サレタカラ・・・。
でも本当はね、心配なんかされたくなかったはずですよ。
本当は応援されたかったはずです。
心配よりも応援を
心配するという行為の根っこは「不安」です。
少し難しい話になりますが、あらゆる感情は2つの感情から派生しています。
「不安」と「愛」です。
愛を与えたいのなら、愛から生まれてくる言葉を使うことです。
不安から生まれる「心配」よりも、愛から生まれる「応援」が喜ばれる言葉であり、人に勇気とエネルギーを与える言葉です。
「ああ、僕は応援されている存在なんだ」
「ああ、僕は信用されている」
「ああ、僕の存在は迷惑じゃないんだ」
心配されたら「心配、かけちゃって、ごめんね」となるし
応援されたら「応援してくれて、ありがとう」となります。
「シンパイしているよ」と「オウエンしているよ」は同じ4文字です。
もし、自分がどっちをしてほしいかと自問自答するなら、少なくても私は
「心配なんかしてほしくないし、必要ない!」と返品します。
応援してくれたら?
もちろん、「ありがとう!!!!!」と受け取ります。
さあ、応援パジャマと腹巻きを購入して、小さい頃から応援していきましょう。
※「心配」は、とても難しいお話なので、1つの記事だけでは分かりにくいと思います。関連する過去記事をリンクしておきますが、この記事もリライトする予定です。
リライトしたら「アイキャッチ画面」がつきますので、それから読んで頂けた方が良さそうですが、とりあえずリンクしておきます。