Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

善なるものはどの側面から見ても善でしかありえない

 良いとか悪いとか、そういった類のことは人が決めているだけです。ある人にとって良いことがある人にとっては悪いということは山ほどあります。だから、良いも悪いも存在しておらず、もっと言うのなら良いことと悪いことはセットで存在しているのであって、その両面が全体性ということになります。

 ちょっとややこしそうな話ですが、今回の記事でお伝えしたいのは、何が良くて何が悪いのかを判断するときに役立つ内容になっていますので「なかなか自分では判断できないんだよなー。」という人は読み進めてください。

1 善なるもの

 良いも悪いも存在しないので「善」ということでお話します。

 この「善」という状態は、あらゆることに関して「善」です。

 例えば太陽は「善」です。人にとっても動物にとっても植物にとっても物質にとっても善です。「いやいや、日照りだと困るでしょう。」という意見はあるかもしれませんが、地球規模で見れば善でしかありえません。

 健康シリーズでも書いてきましたが「自然なる食べ物」は「善」です。あらゆる臓器にたいして優しく、自然なる食べ物を食べてお腹を壊すということはありません。そしてその作用については多岐にわたります。

 人のために役立つことも「善」です。本当に役立つのならという条件はありますが、人が喜ぶと自分も嬉しくなるでしょう。

 で、難しいのが「愛」です。愛は「善なるもの」の最終形態と言っても過言ではないくらい広く深く温かいものです。だから絶対的で圧倒的な「善」です。

 ところが、この「愛」を理解していないが故に「愛」と勝手に思い込んでいるものを悪いものとしてしまうことがあるのです。

 例えば「愛と憎しみ」のセット。愛が最初になければ憎しみは発生しません。だって、全然関係ない人に憎しみはもてません。関わりがなければ関係ないですから。

 その時、多くの人が使っている「愛」は、善であるのならば害にはならないはずなのに、なってしまっている。だから、その「愛」は「偽物」だという理解です。

 

2 善ではないものはどこまでも善ではない

 善の逆はなんでしょうかねえ。

 善はそれ自体で自立しているので、言葉が難しいのですが、説明するために必要ですから、仮に「害」としましょうか。

 で、害になることは、善にはなりえません。

 悪いことと良いことは人が決めるので、どちらにも変身可能なのですが、善と害はそれぞれが独立しているというのが私の理解です。

 害があることは、たとえ瞬間的には良さそうに見えたとしても害でしかありませんし、その範囲は善と同じように広大です。

 これを理解すれば、世の中で起きていることと、自分がなにを選択すればよいかの判断材料になります。

 

 具体的なお話をしましょう。

 コロナワクチン。これが分かりやすいかな。

 私ははじめからコロナワクチンには反対の立場です。

 どの角度から見ても、ワクチン自体は身体にとっては害です。

 ワクチンそのものについても害であるにもかかわらず、今回のワクチンは、今までのワクチン以上の害になる可能性が大というのが私の理解でしたから、私はワクチンを打ちませんでした。

 でも、テレビも周りの様子も「ワクチン接種は良いこと」とする風潮がありました。「良いこと」というのは、何度も言いますが、人が決めているだけで、人がそのように物事を見ているというだけです。それが「善」なのか「害」なのかを決めるのは人ではありません。人を越えています。

 

 では、働くことはどうでしょうか。

 これは少し難しい。

 働くことは「善」です。しかし「害」になることもあります。

 すると、言っていることが矛盾しますね。

 善はどこまでも善であり、害はどこから見ても害であるという理屈と矛盾します。しかし矛盾はしていません。そこに程度の問題があるからです。

 

 昔、アリストテレスが「中庸の徳」というのを説いています。

 簡単に言うと、何でも「中間ぐらいがいいよ!」ということですが、逆に言うと「やり過ぎたら何でも駄目になるよ!」ということです。

 例えば、運動が身体にとって善であるからといって、やり過ぎたら身体をこわしますし、いくら健康に善とされている食べ物であっても食べ過ぎるとやっぱり害になります。

 ですから、善は善、害は害という理解に加えて程度という理解が必要なのです。

 善というものをバランスよく、ちょうどよく、選んで使うこと。

 害は少しならなんとかなりますが、多いとかなり危険ということ。

 この2つを理解できれば、かなりのことを正確に判断できますから、自分の実生活に活かしてみることをお勧めします。そして、善も害も範囲が広大ですから、どこを入り口にして考えても分かりやすくなっているので、判断しやすいと思います。

 

3 まとめ

 基本は、「善は善、害は害」と覚えておけばOKなんですが、もう一つ、大切な事があります。それは「自分で考えて!」ということです。

「多くの人が言ってるから。」とか、「テレビでそう言ってたから。」とか、「みんなやってるから。」などは、全く当てになりません。先ほども述べたように、それは「良い」か「悪いか」という判断を人がしているだけであって、「善」と「害」に関しては人が決められるような小さなものではないからです。

 本当に本当のこと、真理とか真実というのは、人が決められないのです。

 もう既に決まっているのです。人を介在しないで決まっています。

 だから人ができることは、その決まっていることを活用する、活用させてもらう、道具としてありがたく感謝しながら使わせてもらうだけです。

 何か判断に困った出来事があったとして、もし判断に迷ったら、その内容をあらゆる角度から検証し、善の数が多い方を選ぶと良いでしょう。深く潜ることができれば、善と害は共存しておらず、全部が「善」か全部が「害」になっていますが、そこまで深く潜れなくても数としては実感できるので、判断材料として活用できます。